信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・20(VS南部家!南部家の反撃)
斉藤家が武田家の侵攻を受けて弱体化したことにより、美濃国を中心として大名間のパワーバランスが崩れ、今度は六角家を中心として、中部地方から近畿地方にかけて、大規模な戦が発生していた。
六角家VS長野家・本願寺家連合、松平家VS六角家・浅井家連合、三好家VS六角家・北畠家連合といった具合である。
六角義賢は先代の定頼が築いた外交関係を関係を十二分に利用し、新たな中部・近畿におけるパワーバランスを構築しようと目論んだ。
そしてこの戦いは、弘治2年5月にはほぼ決着がつき、六角家連合の完全勝利となった。
弘治2年4月、最上義守の下に天童頼長隊より、九戸政実隊を破り鳥海城を包囲したという知らせが入ったが、それより前に、南部家が再び独鈷城に向けて総勢兵2300で攻め込んできているという知らせも入ってきていた。
最上家の部隊は天童頼長隊以外は、雫石御所攻略戦においては随分と疲弊しており、その対応は難しいものになってきていた。
また南部家は、独鈷城と山形城を分断するために、戸沢家と同盟を結んだ。
そしてもう一つ、嫌な知らせが義守の下に入ってきていた。
最上家は旧宗主国の伊達家に対して外交関係を改善し、南部家と戦うにあたり、南方から長尾家が侵攻していこないよう停戦し、防衛協定を結んでいた。
しかしながら、その伊達家が長尾家と同盟を結んだという知らせが入ってきていた。
これは伊達家の裏切り行為であった。
伊達家の裏切り行為により、伊達家とは停戦期間があと8か月残されていたが、その後の対立は避けられないものとなった。
弘治2年5月、また新たな知らせが最上義守の下に入った。
蝦夷の蠣崎家が南部家に宣戦布告し、津軽半島に上陸したという知らせだった。
これは悪い知らせではなかったが、翌月にはこの戦いは南部家が勝利し、蠣崎家は撤退したという知らせが続いた。
九州地方北部では、弘治2年5月、大友家が大内家との外交関係の継続を拒絶し、その領内へ約1万を超える兵をもって侵攻した。
大友家は、大内家が厳島の戦いで毛利家に敗れ、名将・陶晴賢が戦死して、弱体化していたことを見逃さなかった。
勢力拡大で日々勢いづく大友家は、さらなる野心を長年友好関係にあった大内家にも向けたのだった。
そして日隈城はその月のうちに大友家に降った。
弘治2年5月、天童頼長隊は鳥海城を攻略し、葛西家は滅亡した。
また同時期に、義守のもとには、雫石御所と独鈷城が南部家に包囲されたという知らせも入っていた。
独鈷城は翌月には北信愛隊に降った。
雫石御所も石川高信隊に攻略されたが、こちらは鳥海城を攻略した天童頼長隊が救援に駆けつけていたので、攻め込んできていた石川高信隊を壊滅させて、7月には城を奪還した。
弘治2年6月。
大友家と大内家の戦は大友家優勢で進み、秋月城と中津城に続いて、城井谷城も大友家のものとなった。
最上家は陸中国での支配権を強化するため、諸勢力に対する工作は怠らなかった。
弘治2年7月。
四国では河野家が西園寺家と戦い城を奪うなどして勢力拡大を始めていたが、三好家が対抗して宣戦布告した。
十河一存を大将に、兵約5000の軍勢を進めた。
これに対し、河野家は能島村上家に救援を求めた。
弘治2年7月。
蠣崎家は再び津軽半島に上陸したが、これも南部家は退けた。
最上家は敵対国が増えてきたこともあり、伊達家の南に勢力を持つ蘆名家と友好関係を築くことにした。
弘治2年8月。
織田家・松平家連合軍は大垣城へ侵攻した。
これに対し六角家は、斉藤家に救援を求めた。
大垣城は元々は斉藤家の城だったが、織田家の勢力拡大は斉藤家にとっては滅亡を意味したので、当主・義龍はこれに応じるしかなかった。
自ら1500の兵を率いて、城の前に陣を張った。
弘治2年8月。
雫石御所を攻略した天童頼長隊は、独鈷城へ向かい、そして包囲し攻略した。
南部家との戦いは、初戦は完全勝利となった。
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「大分県」を検索してみましたら、 9,226 件の画像がヒットしましたよ。
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