信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・28(山形城・三の丸事件と、伊達家VS蘆名家)
九州南部で島津家との戦いに敗れた大友家であったが、九州北部では名将・立花道雪の活躍もあり、着実に勢力を拡大していた。
元禄元年6月、龍造寺隆信は大友家に奪われた高城城の奪還に成功した。
傀儡の大名で、かつ重臣・陶晴賢を失った大内家とは違い、龍造寺家は当主・隆信始め、武闘派の家臣団が健在で、未だに勢いは失っていなかった。
永禄元年6月、最上家による南部家の石川城攻めだったが、最上家の兵力は十分ではなかった。
当主・南部晴政はこの月の上旬、城から出撃して、反撃を開始した。
この戦いで天童頼貞隊は敗走し、天童頼長隊だけが城を包囲していた。
その兵力は1000名にも足りず、7月に後詰で小野寺輝道ら総勢兵2100が横手城と真宝城から出陣した。
永禄元年7月、伊達家はついに長年の同盟国であった蘆名家に宣戦布告した。
伊達家は東北地方南東部を大方制圧し、北方には強大化する最上家があり、南方には関東の覇者である北条家があったことから、侵攻先はもはや旧同盟国の蘆名家のある西方しか残されていなかった。
そしてこの蘆名家に対しては、北方の最上家が蘆名家と友好関係を深めつつあったことから、挟撃を回避する必要からも、伊達家にとって、その侵攻は避けられないものになっていた。
蘆名家もそのことを考えないわけではなかったが、当主・氏方としては勢力拡大にはその道しかなく、やむを得ない状況にあったかも知れない。
伊達家は三方より会津盆地に侵攻し、東方からは河東田清重隊ら兵5000で猪苗代城へ侵攻し、北方からは水谷胤重隊ら兵3000が会津新宮城へ侵攻、南方からは須田盛重隊兵1000が塩生城へ侵攻した。
これに対し、戦力に劣る蘆名家は北方の会津新宮城防衛は諦め、主力の黒川城の兵士を重臣の穴沢俊光に兵1500預けて、伊達家の主力部隊と戦うために、猪苗代城防衛に向かわせた。
この東部戦線には当主・氏方も参陣し、総勢2500の軍勢になっていた。
また南部戦線は、義弟の蘆名盛氏らが兵1000で迎撃に出ることになった。
永禄元年7月、尼子家は浦上家への度重なる敗戦から南方侵攻を諦め、東方の山名家の領土に軍勢を差し向けた。
永禄元年7月、石川城の包囲戦は総力戦になり、最上家当主・義守隊も参陣した。
伊達家と蘆名家の戦いは、早々に決着が見えた。
永禄元年7月下旬には、水谷胤重隊らに会津新宮城は降伏し、両軍の主力部隊が激突した猪苗代城周辺での戦いは、伊達家が勝利し、鬼庭左月斎隊が城を攻め落とした。
永禄元年8月、最上家の氏家定直は山形城に三の丸を設ける改修工事を開始した。
本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された輪郭式平城になるという触れだったが、奇妙なことに、三の丸と水堀は、早々に埋められたのかそれとも掘らなかったのか、間もなくして跡形もなくなくなっていた。
またこの工事に携わった職人全員が、職務怠慢という触れで突然処刑された。
新たに工事を開始した定直は、職人の数を3倍にも増やして作業を進めたが、最初に動員した職人の数の少なさや人選をいぶかる城内の声もちらほらと聞こえた。
処刑された職人たちは、普段工事を営む者たちではなかったからだ。
家臣にこのことを問われた定直は、こういったという。
「殿には詫びておる。いや、殿が詫びておったわ。」
永禄元年9月、伊達家の鬼庭左月斎隊は蘆名家の本城である黒川城を包囲した。
また塩生城は当主・伊達晴宗自ら後詰で出陣して包囲した。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「黒川城」を検索してみましたら、 1,716 件の画像がヒットしましたよ。
http://amanaimages.com/keyword/result.aspx?Page=Search&KeyWord=%8d%95%90%ec%8f%e9&ImageID=
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