信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・35(立花道雪の敗戦)
奥州では、最上家が南部家の最後の領土である東陸奥国への侵攻が行われるとのもっぱらの噂だった。
南部家もこれまで、そういう雰囲気が漂い始めていた。
しかし、南部家の天童頼長は安易にこの流れには乗らなかった。
蝦夷地で依然として兵力を持つ蠣崎家への牽制をかねて、陸奥福島城に向けて出立すると触れを出した。
永禄2年8月半ば、最上家は本国・山形城より、天童頼長が兵2200を率いて、陸奥福島城に向けて移動を開始した。
永禄2年9月、葛尾城を巡る長尾家と武田家の戦いは、武田家が再び勝利した。
永禄2年9月、朝倉家の織田家の長島城への侵攻は、失敗に終わった。
永禄2年9月、島津家の島津義弘隊は高森城を攻略した。
また臼杵城をめぐる戦いは、岡本頼氏の奮戦もあり大友家が勝利したが、島津家の攻勢はそれで終わりではなく、島津日新斎らが後詰で向っていた。
永禄2年9月。
最上家の放った間者から義守にもたらされた情報で、蠣崎家の兵力が僅か3000足らずしかないことが判明した。
南部家は依然として5000を超える兵力があり、義守は蝦夷地攻略を先に行っても良いのではないかという考えに傾きつつあった。
永禄2年9月。
最上家の当主・義守は横手城からも小野寺輝道隊を兵1100で、陸奥福島城に向けて出陣させた。
戦に明け暮れる最上家であったが、内政をおろそかにはしていなかった。
翌10月には、横手城では農業区画で馬借の建設が始まり、天童城では白鳥長久に命じ、商業区画で宿場の建設が始まっていた。
最上家は奥州探題を名乗る伊達家をしのぐ大国への道を歩み始めていた。
こんな中、南部家はついに伊達家と同盟を締結。
最上家と伊達家は間接的にではあるか、敵対国としてお互いを意識するようになっていった。
永禄2年10月。
御船城、岩尾城、高森城を攻略した島津家の軍勢は、大友家と共同戦線を張り、隈本城につめていた竜造寺家の軍勢と激突した。
島津家の先陣は、島津義弘隊が兵3000で東方より進軍した。
一方の竜造寺家は円城寺信胤隊が兵1000でこれを迎え撃った。
また竜造寺家の当主・隆信は、南方から隈本城へ進軍する島津家の部隊に備えた。
永禄2年10月。
島津家と大友家の戦は、隈本城を巡って重要局面に入りつつあったが、この時、大友家は大きな不運に見舞われた。
九州から追い出し、櫛崎(くしざき)城の戦いで壊滅的にまで追い込んだ大内家が、なんと櫛崎(くしざき)城奪還に動いてきたのだ。
その兵を率いたのは、冷泉隆豊という武将で、重臣の陶晴賢亡き後も、大内家を支える忠臣として名が知れていた武将だった。
かつては西国一の大名として名を轟かせた大内家には、人がいないわけではなかった。
冷泉隆豊は島津家と大友家の戦いが佳境に入ったことを見て取り、勝機はここにありと、長門の国の本城である山口館の兵力を率いて出陣したのだ。
大内家と島津家に挟撃されるわけにはいかないと、これには大友家の筆頭家老である立花道雪が向かわざるを得なかった。
大内家の進軍は隣国の毛利家に対して無防備となる、リスクのある選択であり、そこまでして大友家との戦に大内家を駆り立てた大友家の対外政策の巧拙は、考える必要があったのかも知れない。
馬上にあり、西の空を振り返る立花道雪の脳裏にそんな思いがよぎり、大友家の命運を決する大戦に向かえない自分への苛立ちがつのった。
永禄2年11月。
隈本城を巡る島津家と大友・竜造寺連合軍の戦いは続いていた。
東方での島津義弘隊は竜造寺家の円城寺信胤隊を撃退し、神代勝利隊との交戦を開始していた。
また南方での戦いは、竜造寺隆信隊が島津家の部隊を撃退した。
永禄2年10月。
大友家の立花道雪は九州一の名将と言われ、戦では負けたことのない男として知られていたが、櫛崎(くしざき)城に攻めてきた冷泉隆豊隊との戦では、完膚なきまでに叩きのめされた。
重装備の近衛兵を従えた冷泉隆豊隊と正面からぶつかった道雪の部隊は、配下の名だたる将校が戦死した。
連戦連勝の戦慣れした道雪の部隊だったゆえに、数十年来、西国一の大名の本城守っていた近衛兵の強さを忘れていたのだった。
櫛崎(くしざき)城は冷泉隆豊隊の手に落ちた。
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「山口県」を検索してみましたら、 9,345 件の画像がヒットしましたよ。
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