信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・38(島津家VS大友家、隈本城攻防戦!)
永禄3年1月、最上家は破竹の勢いで領土を拡大していた。
蝦夷地へ上陸した天童頼長隊らは下国帥季隊と交戦、兵力に上回る最上家はこれを難なく壊走させた。
主力兵力を率いての敗戦の失態から、徳山館に戻ることが出来なくなった下国帥季ら数名はは、闇夜に紛れて天童頼長隊の宿舎を強襲した。
これには天童頼長もさすがに驚き逃げ一旦は出したが、むしろ良い機会と翌日の一騎討ちを約束した。
翌日、徳山館の城兵が見守る中、天童頼長と下国帥季の一騎討ちが行われた。
天童頼長はこれを一刀のもとに切り倒し、最上家陣営は大いに沸き、城内は静まり返った。
野辺地城周辺での最上家と南部家の戦いでは、石川高信が奮戦した。
この城を取られると、南部家の最後の領土である東陸奥国の豪族が、一斉に南部家から離反することが目に見えていたからだ。
永禄3年2月、最上家は野辺地城周辺の戦では苦戦を強いられていたが、奥州の覇者への道を突き進んでいたことは、誰の目にも明らかだった。
永禄3年2月、鶴ケ岡城では、池田盛周という若者が仕官してきて登用された。
池田盛周は大宝寺氏(武藤氏)に仕えていた池田盛国の子であった。
日の出の勢いにある最上家には、かつて滅ぼした大名や豪族の家臣たちも、競って仕官を望んだ。
永禄3年2月、四国での湯築城周辺での戦は、長宗我部元親隊は挟撃にあいながらも奮戦したが、鬼十河と言われた十河一存隊が到着した時には、敗戦を覚悟するしかなかった。
永禄3年2月、九州では隈本城をめぐる大会戦が行われていたが、島津家は大友家の岡城にも兵を進めた。
これには当主・島津貴久自ら兵を率いた。
永禄3年2月、島津家の樺山善久隊は、大友家の領内を堂々と進軍して北方より隈本城攻めに加わり、島津家は南方・東方と三方から大友家を攻撃した。
隈本城にはすでに当主・大友宗麟が入場し、名将・立花道雪も城外にて奮戦を続けていたが、三方からの挟撃にはなすすべもなかったし、とりわけ北方から現れたのが、自軍の救援部隊ではなく島津家の部隊だったことには、自らの気力が萎えていくのも感じずにはいられなかった。
更に、赤池長任らの島津家の軍勢は隈本城を素通りして、九州北部の大友家本国へ向かおうとしているという情報も入ってきていた。
大友宗麟も立花道雪も、この事態が未だに実感できない状態にあった。
自分たちは、九州統一が目前にあったのではなかったのかと。
永禄3年2月、九戸政実隊は名生城を攻略し、大崎家は滅亡した。
永禄2年2月、最上家の天童頼貞隊は石川隆信隊とほぼ互角の戦を続けたが、兵の損耗激しく、野辺地城攻略は諦めて、撤退を開始した。
永禄2年2月、天童頼長隊や最上義守隊はついに徳山館を包囲し、強行策で城を攻めた。
城主不在の徳山館は、天童頼長隊の激しい攻撃を受け、落城した。
最上義守はついに蝦夷地の本城・徳山館への入城を果たしたのである。
また天童頼長隊は入場し休息をとることなく、蠣崎家の最後の城である茂別館へと、進軍を開始した。
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