信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・40(天文の乱)
どうすれば停戦調停が出来るか。
義守は評定の場で深く考えた。
最上家と伊達家の停戦を取り持てる大名は、長尾家か北条家が考えられたが、どちらも伊達家とは友好関係にあった。
無理だ。
だとしたら、朝廷工作か。
安東愛季からの提言は、それは唯一の停戦の手段だった。
鎌倉幕府成立以降、朝廷は久しく力を失っていたが、それは力を実行する資金や人がなかったからだった。
資金と人物がいれば、朝廷は動ける。
幸いにも正親町天皇は、近年即位の礼を行っており、力がないわけではない。
あとは金か。
最上義守は朝廷を動かすために、資金の援助と停戦調停の要請をすることにした。
だが。
義守は絶望を覚えずにはいられなかった。
朝廷を動かすには1年以上かかる。
山形城はもつまい。
それどころか、1年もあれば、伊達は最上を滅ぼすことも出来よう。
安東愛季からの書状には、調停工作を氏家定直に伝えた後のことも書かれていた。
それは若にさせるべきだと定直が言ったと。
若とは誰か。
私にはわからないのだがという走り書きが最後にあった。
あれは化け物ぞ。
あ奴を最上の血として残すというのか。
義守はそうつぶやき天を仰いだ。
最上義守には二人の男児がいた。
義守は二男をいつくしみ、手元で育てていた。
長男にはいわくがあり、忌み嫌って、天童頼長に預けきっていた。
長男は白寿丸という幼名で、母は小野少将の娘とされる。
しかしそれは違う。
義守は、まだ最上家が伊達家の傘下にあった、ある夜のことを思い出すのだった。
天文11年から17年までの6年間、伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛をきっかけに、奥州を二分する大戦が行われた。
世にいう「天文の乱」である(以下、同項Wikipedia参照)
永正11年(1514年)に伊達氏第14代当主となった稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至った。
奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、一挙に拡大した伊達家中の統制を図るべく『蔵方乃掟』・『棟役日記』・『塵芥集』・『段銭古帳』などの分国法・台帳を次々と作成して集権化を推し進めていった。
また特に稙宗に協力的であった婿の相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようとしたが、この案に稙宗の長男・晴宗が猛反発する。
これに加えて、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示したことで、父子間の対立は決定的なものとなる。天文9年(1540年)には越後においてこの案に反対する揚北衆の本庄房長らが挙兵して紛争へと発展しており、稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させることにした。
強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時・桑折景長・牧野宗興ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、天文11年(1542年)ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。
天文11年(1542年)6月、晴宗は鷹狩りの帰路を襲って稙宗を捕らえ、居城・西山城に幽閉した。
ところが稙宗は側近・小梁川宗朝によって救出されて娘婿・懸田俊宗の居城・懸田城へと脱出し、相馬顕胤をはじめとする縁戚関係にある諸大名に救援を求めたため、伊達氏の内紛は、一挙に奥羽諸大名を巻き込む大乱になった。
序盤は諸大名の多くが加担した稙宗方優位のうちに展開し、陸奥では大崎義宣・黒川景氏が柴田郡まで兵を進めて留守景宗を抑え、出羽では鮎貝盛宗・上郡山為家・最上義守らが長井郡をほぼ制圧した。
ところが、天文16年(1547年)、稙宗方の田村隆顕と蘆名盛氏の間に不和が生じて両者が争い始めると、蘆名氏は晴宗方に転じた。
このため戦況が一転して晴宗方優位に傾くと、さらに稙宗方からの離反者が相次ぎ、ついに天文17年(1548年)9月、将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結した。
同時に越後においても、時宗丸入嗣推進派と反対派との間で戦闘が発生したが、入嗣推進派の上杉定実・中条藤資らは、反対派の守護代・長尾晴景や揚北衆などの越後国人衆に敗れ、ついに時宗丸入嗣案は完全に頓挫した。
(以上、同項Wikipedia参照)
義守の長男・白寿丸はこの戦の最中に生まれた。
あの夜は、ひどく寒い夜だった。
我ら最上家は、稙宗の力をを恐れるあまり、稙宗について晴宗と戦うしか選択肢はなかった。
しかしわしは戦が得意ではなかった。
戦に敗れ、晴宗方に捕えれて、米沢城に引っ立てられた。
わしは自分のふがいなさに死も観念もしたが、そこには伊達家随一の猛将・小梁川宗朝も捕えられていた。
戦では強い者も負けることがあるのだと知ったものだ。
だがそんな感慨はすぐに消えた。
小梁川宗朝には娘がいた。
家中でも評判の醜女だった。
わしは見せしめに、晴宗ら戦勝の酒を飲む中で、その女と交わるように命令されたのだ。
わしは伊達家の家臣らが笑い転げる中で、小梁川宗朝の娘と交わった。
真夜中じゃ、米沢城から裸で小梁川宗朝の娘と追い出されたのは。
それから山形城へどうやって帰ったかは覚えておらぬ。
戦は次第に晴宗の優勢が明らかになり、蘆名が晴宗についたりして、晴宗が勝った。
我が家の家臣らは、これを機に独立したことで大いにこの戦を喜んだが、わしにとっては思い出したくない戦だった。
小梁川宗朝の娘は、子を生んだ後で自ら命を絶った。
わしはその子が母のように命を絶つことのないよう、白寿丸と名付けた。
しかしわしは、その子を育てることは出来なんだ。
白寿丸は、怒り、苦しみ、悲しみ、無力さや屈辱で、わしを苦しめるのだ。
わしは二男が生まれると、その子を天童頼長に預けた。
白寿丸が齢4つの時じゃ。
頼長には、一時たりとも、その子を己から離すなと命じた。
頼長は戦が仕事じゃ。
いくら最上家一の猛将とはいえ、戦続きならいつかは死ぬだろうという思いもどこかにはあった。
だが奴は死ななんだ。
頼長の傍には、醜い顔の小僧がいつも控えておる。
今では、戦では頼長より早く敵陣にのりこむという話だ。
あまりの顔の醜さに、矢や刀ですら、あいつを避けていくという話も聞く。
あ奴は化け物だ。
定直はあ奴を朝廷に使わせという。
万が一、最上が伊達に滅ぼされても、都にいるなら死なずに済む。
そういうことだろう、定直。
義守はその日、評定を終えてからも、一人でいつまでもその場で考えていた。
家臣たちは評定中にまた寝入ったとあきれてもいたが、そうではなかった。
翌日、義守は頼長に書状を書き、白寿丸がわしの子であることを伝えるよう命じた。
そして白寿丸は、すぐに徳山館に戻るようにと。
定直はわしをわかっておる。
朝廷に送れば、また会わなくなる。
わしは苦しまずに済む。
義守は誰もいなくなった評定の間で、そんなことを考えていた。
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