信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・42(包囲される山形城)
永禄3年5月。
「戦っても勝てない」
伊達家の大軍勢に攻め込まれた最上家には、絶望感が溢れていた。
山形城から迎撃に出た安東愛季隊も撤退を始めたのだが、山形城に戻らずに天童城に戻り始ろうことも、山形城内に少なからず動揺を与えた。
これは伊達家を偽計するつもりだったのが、それすらも信用できない状況になっていた。
安東愛季は所詮外様、そんな声も上がっていた。
そんな中、徳山館の義守よりさらに投げやりな指示が各地の城主に伝えられた。
全ての政策を取りやめよとの指示だった。
とりわけ夫役強化が解除されたことは、多くの城主の戦意をそいだ。
永禄3年5月。
松平・織田連合軍と今川家の長篠城をめぐる戦いは、連合軍優勢で進んでいた。
永禄3年5月。
尼子家の尼子国久らは総勢3000の兵力で、毛利家の羽衣石城奪還のために進軍した。
永禄3年5月。
浦上家は清水宗治を先陣に総勢7000の兵で、山名家の鳥取城へ侵攻した。
山名家は吉岡定勝に兵500を預け、これを迎え撃った。
九州の岡城をめぐる島津家と大友家の戦いは、大友家の城主・岡本頼氏が奮戦し、城を守り切った。
永禄3年5月。
大内家の小倉城への侵攻は、天野隆重隊らが城を包囲した。
永禄3年5月。
九州の隈本城での戦いは、大友家の救援に来た竜造寺家が続々と後詰を送り込んで、島津家も攻めてはいるものの、未だ攻略出来ないでいた。
永禄3年5月。
ほぼ全軍で最上家へ侵攻した伊達家に対し、南方にあった佐竹家は侵略行動に出た。
当主・義昭らが総勢5000もの兵で、飯野平城へ進軍を開始したが、伊達家はすぐに各地から救援の兵を送った。
強大な伊達家は、佐竹家の攻撃くらいでは、最上家へ進軍した兵を呼び戻す必要などなかった。
永禄3年5月。
先陣として突き進む伊達家の蘆名盛氏隊の前には、もはや敵はいなかった。
永禄3年5月。
最上家の本城である山形城は、伊達家によって包囲された。
永禄3年5月。
一旦は山形城を包囲した伊達家だったが、包囲する部隊の後方から最上家の部隊が襲撃してきたので、包囲を解いた。
兵力としては少数だった。
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