信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・44(浅井長政の元服)
永禄3年7月。
近江国・小谷城を本拠する浅井家。
当主・浅井久政は、父・亮政に比べて武勇の面で劣り、後継者問題でももめた経緯があった。
そのため、浅井家の勢力は弱まり、南近江の六角家の圧迫を受けていた。
そんな中で、重臣たちの唯一の希望は、この歳元服した浅井久政の嫡男・浅井新九郎長政であった。
赤尾清綱:ついに、この日がきたのう。
遠藤直経:うむ、長政様が元服なされた。
:我々もいよいよ立ち上がる時が来たのだ。
赤尾清綱:長かったのう・・・・・・。
:じゃが、六角にひれ伏す日々とも、今日でおさらばよ。
遠藤直経:我らは長政様を浅井家当主に頂く心づもり。
:そのためには、久政様には隠居してもらわねば。
赤尾清綱:しかしそのようなことをすれば、六角が黙ってはいまい・・・・・・。
:兵を向けてくるやめしれぬ。
遠藤直経:そうなれば、一戦あるのみ。
:長政様の下で戦い、散るのであれば本望よ。
赤尾清綱:そうじゃな・・・・・・。
:そのために、我らはここまで耐えてきたのだ。
:では、久政様に隠居を勧めに行くとするか。
遠藤直経:おう!
:そもそも、それでしくじれば腹切りよな。
:はっはっは!
このように、浅井家の一部重臣の間では、六角家に対して強い態度に出られない当主・久政に愛想をつかし、幼い頃より大器の片鱗を見せる嫡男・長政を当主・に据えようとする機運が高まっていた。
永禄3年7月の最上家評定。
伊達家が着実に最上領内に入っており、城が次々に包囲され、天童城は鬼庭左月斎の手によって陥落したことが報告された。
義守はその報告を聞きながらも、明るい報告もさせようと、支配権を確立した蝦夷地の内政報告もさせた。
徳山館の修復や、中野衆への調略の成果が報告された。
永禄3年7月。
天童城を伊達家が攻略したことで、山形城の包囲軍を背後より襲撃する部隊はなるなるはずだった。
しかし包囲軍への襲撃は変わらず続き、蘆名盛氏はその度に包囲を解き、襲撃者を探させた。
西方の一ノ関山、大森山、富神山、鷹取山あたりに襲撃拠点があるのではないかという推測がなされ、その近辺を洗いざらい調査したりもしたが、それらしいものはなかった。
永禄3年7月。
真室城は伊達家の相馬盛胤隊らに包囲されていた。
城内の士気は日々落ちていった。
永禄3年7月。
那須家は佐竹家の石塚城を攻め立てたが、伊達家領内から帰還してきた佐竹家の部隊との戦いに敗れ、退却した。
永禄3年7月。
武田家は不破光治隊らが猛攻をかけ、松平家の大垣城を早々に攻略した。
これにより美濃国を超えて、近江国、そして京へと続く、上洛への道が開かれた。
永禄3年7月。
浦上家が山名家の鳥取城を攻略した。
赤松家からの救援部隊は、浦上家の主力部隊である宇喜多直家隊と遭遇する前に、別の部隊の奇襲を受け敗走してしまった。
永禄3年7月。
大友家の小倉城は大内家が奪還し、その功績により天野隆重が城主に任命された。
永禄3年7月。
小倉城を大内家が奪還したという報告は、隈本城を攻める島津家にも伝わった。
島津家の配下となっていた犬童頼安は、「負け戦が得意な大内が勝てて、負け知らずの島津が勝てぬことがあるか!」と攻城兵を鼓舞した。
この猛攻により、難攻不落の隈本城の城門の一つが突破された。
島津家は後詰を急がせた。
その中には、鬼島津と恐れられ始めていた義弘の姿もあり、総勢5000超える兵力が隈本城を目指した。
永禄3年7月。
四国では一条家と西園寺家の小競り合いが起きていた。
西園寺家は長宗我部家に救援を求め、これを撃退した。
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「高知県」を検索してみましたら、9,822 件の画像がヒットしましたよ。
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