信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・46(伊達家VS最上家 最上家の反撃!)
真室城の奪還に動いていた最上家だったが、そうやすやすとそれを許す伊達家ではなかった。
永禄3年8月。
鬼庭左月斎隊は2800の兵で真室城救援に向かった。
永禄3年8月。
長尾家の北条高広隊は那須家の大田原城を攻略した。
永禄3年8月。
最上家の東禅寺義長隊はわずか600の兵力だったが、鬼庭左月斎隊が到着する前に真室城を奪還した。
最上家はその真室城に、横手城から延沢満延に兵900を預けて救援に向かわせた。
永禄3年8月。
真室城は鬼庭左月斎隊が奪還するとは思われたが、伊達晴宗は万全を期して草野直清隊兵2000を後詰で向かわせた。
永禄3年8月。
真室城を奪還した東禅寺義長隊が鶴ヶ岡城の兵だったと知った伊達晴宗は、亘理元宗に鶴ヶ岡城攻略を命じた。
やられたら倍にしてやり返すと、伊達晴宗は息巻き、戦火を拡大させた。
永禄3年9月。
酷い凶作が発生したという噂が全国各地で広まったが、不思議とその場所は特定されなかった。
だが市中の人は、その噂を良くないことが起こる前ぶれだとささやきあった。
その話を聞いた最上義守は、戦乱の世に民が疲れ始めてきているのかも知れぬなと、漠然と考えていた。
永禄3年9月。
延沢満延隊は真室城の救援に向かっていたが、一つの奇策を思いついた。
天童城奪還に動けば、鬼庭左月斎隊は孤立を恐れて、天童城に向かうのではないかというものだった。
この動きは真室城にいた東禅寺義長も察知し、天童城への進軍を始めた。
永禄3年9月。
蘆名盛氏の城攻めはおかしいのではないかという声が、伊達家の軍勢で起き始めていた。
包囲軍は度々どこからともなく沸いてくる襲撃者に襲われ、城攻めが出来ない状態でいて、付近の山林を調査したりもしたが、襲撃元を掴むことは出来なかった。
しかし伊達家の軍勢は城を包囲する部隊だけでなく、街道で立ち往生している部隊もあった。
その立ち往生している部隊からすれば、少数の襲撃者など相手にせず、総攻めを始めれば城は落とせるのではないかという声が上がり始めていたのだ。
最上と通じているのではないかという噂もたち始めたのを聞いた蘆名盛氏は、総大将にこだわるつもりはないと、当主・晴宗に兵糧が切れかかっているので後詰と交代したいと頼みこみ、その役割を須田盛秀に譲った。
永禄3年9月。
関東北部では佐竹家が那須家最後の城である烏山城を取り囲んでいた。
これに対し、その宗主国である北条家は救援部隊を派遣していた。
また長尾家に奪われた大田原城には、当主・北条氏康自ら3000近い兵を率いて奪還に向かっていた。
永禄3年9月。
今川家の長篠城は、攻め手となった松平家の援軍にきた織田家が攻略し、これを松平家に明け渡した。
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