信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・47(包囲された山形城の城下町の様子)
永禄3年8月。
島津家はついに大友家の隈本城を攻略した。
攻め手の総大将を務めた島津義弘隊兵1500は、その勢いで竜造寺家の日之江城に進軍した。
竜造寺家は納富信景に兵1500を与え、迎撃に向かわせた。
しかし島津家は南方からも島津忠将隊が兵1000で日之江城に向けて進軍し、これに対しては竜造寺家は有馬晴純隊兵1000を迎撃にあたらせた。
永禄3年9月。
隈本城には島津家の長倉祐政が入場した。
長期間の戦で、城内には大友家の多数の負傷者がいた。
彼らは皆、島津家に降伏した。
永禄3年9月。
大友家の鷹取山城は大内家の冷泉隆豊隊ら兵5000に包囲された。
大友家は竜造寺家に救援を要請し、当主・竜造寺隆信自らこの救援に駆けつけた。
しかしこの動きを島津家がすぐに察知したことが、島津家の竜造寺家への即時侵攻へとつながった。
永禄3年9月。
伊達家による山形城の包囲は5月に始まり、すでに4か月が過ぎていた。
城内は城主・氏家定直の指揮のもと、戦意を保った状態にあったが、城外ではその指揮の及ぶところではなかった。
攻め手の総大将が蘆名盛氏から須田盛秀に代わってから、城下町では伊達家による略奪行為が起き始めていた。
町民は怒りを募らせたが、恐怖からか2万にも及ぶ伊達家の軍勢にその怒りが向けられることはなかった。
城を明け渡すなら、早く明け渡してほしい。
そんな最上家の怨嗟の声が起き始めていた。
その声は遠い蝦夷地の徳山館にまで伝わっていた。
蠣崎季広:殿、民の声が聞こえませぬか。
最上義守:うむ、聞こえるが・・・・・・
:我らを恨む声ばかりではないか
蠣崎季広:左様にございます。
:申し上げにくいことではございますが、
:我々は民に慕われておりませぬ。
:このまま放っておいては民は働かず、兵にしようとすれば逃げ出し、
:いずれは一揆を起こしかねません。
:民の声を聞き、民に慕われる領主を目指しましょう。
戦国伝 『民の声』 発生
民の怨嗟の声が聞こえます。民に嫌われていると、兵も収入も減少します。民忠が上がる政策の施行、施設の建設をしましょう。
目標 山形城の民忠を60にする
永禄3年9月。
伊達晴宗は嫡男の輝宗にも戦の経験を積ませようと、鶴ヶ岡城攻略の後詰を命じた。
永禄3年10月の最上家の評定。
山形城の包囲戦が報告され、奪還した真室城の修復作業の経過も報告された。
徳山館の開発は兵舎建設が行われ、農業区画では小野寺輝道に灌漑水路の建設が指示された。
永禄3年10月。
延沢満延隊による、鬼庭左月斎隊の天童城へのおびき寄せは成功したが、後詰の草野直清隊兵2000はもう真室城の傍まで進軍していた。
永禄3年10月。
長尾家の大田原城への北条家の侵攻は、北条家優勢で戦いは進んだのだが、長尾家の抵抗も激しかった。
北条氏康隊は多くの兵を損傷したが、城の攻略には成功し、大田原城は北条家のものとなった。
佐竹家が包囲していた那須家最後の城である烏山城にも、北条家は救援の兵を送ったが、これは佐竹家の軍勢に撃退された。
永禄3年10月。
浦上家は毛利家と同盟を結び、宇喜多直家隊ら兵4000で赤松家の室津城へ侵攻した。
これに対し赤松家は、赤松政秀らに兵2000を与えて迎撃させた。
またこの動きを見て、山名家は吉岡定勝隊ら総勢2500で、浦上家の鳥取城へ攻め込んだ。
室津城を巡る戦は、浦上家が勝利し、城は浦上家のものとなった。
永禄3年10月。
鷹取山城での大内家と大友・竜造寺連合軍の戦いは、大友家側が勝利し、城の防衛は防衛された。
永禄3年10月。
日之江城を巡る島津家と竜造寺家の戦いは、島津義弘が迎撃にした竜造寺家の軍勢を次々に打倒し、城を包囲しようとしていた。
竜造寺家は九州一の知将とうたわれ始めた鍋島直茂に兵1000を与え、この救援に向かわせた。
しかし島津家はこの動きを察知し、新納忠元隊兵1500がゆく手を遮るように鍋島直茂隊の前に立ちはだかった。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「福岡県」を検索してみましたら、16,816 件の画像がヒットしましたよ。
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