信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・51(最上義光の元服)
しばらく動きのなかった武田家だったが、動き出したら風林火山の林の如く静かで素早かった。
永禄4年2月。
武田軍は瞬く間に松平家の部隊を追い散らし、北畠家の救援も焼け石に水の戦況となった。
長篠城は武田によって包囲された。
永禄4年2月。
引馬城周辺での戦いにおいて、武田信虎隊兵5000を押し返した織田信長隊だったが、武田家からの救援部隊である不破光治隊を前にして、退却を始めた。
現状の戦力では城の攻略までは出来ないとの判断だった。
永禄4年2月。
赤松家の赤松政秀隊ら兵1500が、浦上家の室津城に攻め込んだ。
浦上家は岡利勝隊ら兵1000で迎えうった。
永禄4年2月。
島津家の島津歳久隊兵1000は、竜造寺家当主・竜造寺隆信の籠る大村城を包囲した。
竜造寺家は神代勝利隊1500を救援に送った。
永禄4年2月。
伊達家の戦力が山形城攻略に集中しすぎている欠点を見抜き、九戸政実隊らは伊達家の寺池城を攻略した。
永禄4年2月。
白寿丸より蠣崎季広に、朝廷工作が成功したという知らせが入った。
一年以上かかると思われていた朝廷工作だったが、蠣崎季広が輸送する金の量は莫大だった。
朝廷では一気に最上家保護の世論が出来上がっていった。
永禄4年2月。
寺池城攻防戦で捕縛された伊達家の武将の中には、自ら最上家に降る者も出てきた。
実は山形城を包囲する伊達軍の中で、小梁川宗朝の娘の祟りの噂が流れ始めていた。
小梁川宗朝は、伊達家当主の伊達晴宗の父親である伊達稙宗の家臣で、当時は伊達家随一の忠臣として知られた武将だった。
その娘が晴宗にいたぶられたあとに最上家に嫁がされ、そして自害したという話だった。
仲間の家族すらもいたぶる晴宗の残忍さが、陣中でささやかれ始めたのだ。
これは伊達軍の戦意を大きく削いだ。
包囲軍を背後から襲撃している裏切り者がいるのも、こういう過去があるからだと、まことしやかに囁かれた。
雑兵の中には、「この戦は勝てぬ」そう口にする者まで出てくる有様だった。
永禄4年3月。
朝廷の使者ともに東海道を上り始めた白寿丸に、本国の義守の間者からの伝言が届いた。
「時間は違えてはならぬ。元服せよ。名を源五郎義光と改めよ。」との命だった。
それを聞いた朝廷の使者はとても喜び、これはめでたいとその立ち合いを申し出た。
滅亡の危機にある最上家に、一筋の光明をもたらす使者を連れて、最上義光が元服したのである。
最上義光は、幼少の頃から背が高く、5,6歳の時には既に12,3歳程度の背丈があったこともあり、白寿丸として幼き頃より軍中で育った。
そのことから武勇や戦略に関してはすでに重臣級の力を備えていた。
また小梁川宗朝の娘が母親であることから、豪傑の血も混じっていた。
政治能力においても、自身の顔の醜さゆえに、人の心や物事の本質を深く考える習性が出来ていたために、とても高かった。
試みてもそうは出来ない、奇跡の教育環境で育った人物で、極めて有能な武将だったのである。
そしてこの1年で、しばらく伸びなかった背丈が、ひどく伸びた。
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