信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・55(本国で敗走する南部家)
永禄4年5月。
九州では竜造寺家の大村城を巡る島津家と竜造寺・大友連合軍の戦いが続いていた。
戦いは島津家の土持親成隊らが依然として大村城を包囲していたが、救援に赴いていた大友家も増援を続々と送りこみ、その中には名将・立花道雪もいた。
土持親成の勝てる相手ではなさそうに思われた。
永禄4年5月。
最上家はまずは野辺地城攻略を最重要目標としていたが、それは東陸奥の国人衆の南部家への支持を奪うためだった。
しかし天童頼長隊ら兵3400は野辺地城には向かわずに、東陸奥国の本城である三戸城を包囲した。
三戸城は3千程度の兵力で落とせる城ではなかったが、南部家の本体の南部晴政隊がその南方に出陣していたので、北上して野辺地城救援に合流するのを防ぐためだった。
永禄4年5月。
当初は三戸城で南部家本体の北上阻止を考えていた最上家だったが、さらに南方より花輪親行隊が北上してきたのをみて、南部晴政隊を挟撃する作戦に変更した。
永禄4年6月。
野辺地城を巡る戦いは最上家優勢、三戸城での戦いはほぼ互角の戦いと報告された。
この月は池田盛周が引き続き徳山館で開墾に精を出し、また戦が始まったので、兵糧の買い込みも行われた。
永禄4年6月。
大友家に名将・立花道雪がいれば、島津家には鬼の島津義弘がいた。
両軍とも、その激突は固唾をのんで見守った。
永禄4年6月。
三戸城周辺での最上家本体ともいえる天童頼長隊らと南部家の本体・晴政隊らの激突は、激戦の末、最上家が勝利した。
多くの兵を失った最上家だったが、辛うじて戦場に踏みとどまった天童頼長隊は、南部晴政隊を追って、九戸城へ向かった。
南部家の本国で起きた、この晴政の敗走は、東陸奥国中に悲報として伝わった。
永禄4年6月。
野辺地城を巡る戦いは、安東愛季隊らが石川高信隊を撃破し、野辺地城を包囲し、強行で城攻めを開始した。
小城だった野辺地城は、晴政隊の敗走も伝わったこともあり、戦わずに開城した。
永禄4年7月の最上家の評定では、降伏した野辺地城には、兼平綱則を城主として派遣することが決定された。
また兵糧の買い込みがこの月も行われた。
そして高水寺城の城主・九戸政実隊が、兵1600で九戸城に向けて出陣した。
永禄4年7月。
吉田城を手に入れた今川家は勢いに乗って、松平家の岡崎城の西方にある安祥城を向けて兵約5000を進めた。
その総大将は、今川家に客将となっていた武田信虎が務めた。
その進軍に対し、松平家は織田家に救援を要請し、滝川一益隊ら約兵3000が出陣した。
永禄4年7月。
尼子家は毛利家の羽衣石城へ、尼子国久らが総勢3500で攻め込んだ。
衰退著しい尼子家にあっては、かつての中国地方の覇者として君臨した名君・尼子経久の気概を受け継ぐものは、もはや数少なくなっていた。
この尼子国久はその一人であったが、病に度々侵されるほどに肉体は弱くなっていた。
永禄4年7月。
山名家の吉岡定勝隊ら総勢兵3000が、浦上家の鳥取城へ攻め込んだ。
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「鳥取県」を検索してみましたら、 5,553 件の画像がヒットしましたよ。
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