信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・58(南部家の滅亡!)
永禄4年9月、島津義弘は攻略した大村城を島津歳久に任せ、一度は撃退された肥前鹿島城に向けて兵を進めた。
永禄4年9月、竜造寺隆信は大村城から這う這うの体で脱出して、肥前鹿島城に逃げ込んでいたが、ここにも島津家の軍勢が押し寄せていたのだ。
永禄4年9月、三戸城を攻略し、南部晴政らを再び捕縛したのは、最上家でも猛将として頭角を現し始めていた延沢満延という武将だった。
南部家はこの戦いにおいて最後の城を失い、滅亡した。
九戸城で待機していた安東愛季はこの知らせを聞いてほっとした。
そして捕縛していた八戸政栄は最上家に降った。
永禄4年9月。
延沢満延隊は三戸城に入城し、九戸政実らの説得工作も功を奏して、南部家の武将は皆、最上家に降った。
有力な武将では、南部晴政、石川信直、北信愛、九戸実親、小笠原信浄、雫石詮貞、浪岡具永、大浦為則、猪去詮義、泉山古康、保土谷行藤などがいた。
また九戸政実が捕縛していた武将では、九戸信仲、大浦守信などがいて、これも最上家に降った。
永禄4年9月。
南部家は最上家に降伏した。
当主の南部晴政はしばらくはふさぎ込んで登城しなかったが、家臣には今後は最上家に忠誠を尽くすよう指示した。
その甲斐もあり、南部家が支配した領土は、大きな混乱もなく最上家の支配下に置かれた。
その領土は城の数では伊達家を上回り、家臣の数でも上回った。
長く南部家との間で戦が続いたために、石高や兵力では伊達家の半分くらいの力しかなかったが、当主の義光は十分に追いつけると考えていた。
永禄4年9月の伊達家。
兵力では最上家25000に対し、伊達家は5万を擁し、石高では最上家100万石に対し、伊達家は170万石もあった。
しかし義光は人口では伊達家が25万人に対し、最上家も21万人いることに着目していた。
領内から戦が無くなれば、生産力は回復し、兵も増える。
伊達が長尾家や北条家への備えをなくすことが出来ないことを考えれば、伊達家が最上家に向けられる兵力は最上家の兵力を下回ると考えていた。
永禄4年9月の長尾家。
兵力では伊達家と同等程度あり、石高は100万石と若干少なかったが、人口では30万人と伊達家を上回っていた。
長尾家は、最上家の南方は領土を接していたが、いくつもの山を挟んでいたために、長らく戦はなかったが、伊達家と友好関係を築いていたために、最上家に対しては友好的ではなかった。
永禄4年9月の北条家、日の本一の大大名として君臨していた。
人口は50万人、石高は250万石、兵力は約10万人と伊達家を大きく上回る戦力を備えていた。
伊達家は友好関係にはあったものの、この北条家への備えをなくすことは出来なかった。
永禄4年10月。
最上義光は南部家の領土に集結していた各武将に、伊達家からの侵攻に備え、再び各地の城へ詰めるように指示した。
永禄4年10月。
松平家は今川家に停戦を要請し、今川家はこれを受け入れた。
今川家は武田家が今川家側に立って参戦するよう度々要請したが、武田家は今回は動かなかったからだ。
そのため織田家が松平家に救援を送ると、今川家は戦力的に勝てなかった。
永禄4年10月。
赤松家の黒田官兵衛は急ぎ姫路城に戻り、播磨の別所家に救援を要請した。
別所家は赤松家の傘下にあったが、武闘派の武将が多くいて、宇喜多直家はその撃退にてこずった。
永禄4年10月。
別所家の救援に手を焼いていた宇喜多直家だったが、姫路城攻略を疑うことはなかった。
大国の三好家に援軍を要請していたからだ。
当主・三好長慶は毛利家や村上水軍と同盟を結び、盤石の態勢にあったので、大西頼武らに総勢5500を与えて、姫路城へ向かわせた。
大西頼武らは四国より小豆島を経由して、中国地方へ向かった。
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「小豆島」を検索してみましたら、490 件の画像がヒットしましたよ。
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