信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・61(大友義鎮と戸次鑑連の出家)
永禄5年1月。
豊後四主・大友義鎮は「二階崩れの変」と呼ばれる内紛を経て、家督を継承していた。
この際、義鎮は父と義母、そして腹違いの弟を失っている。
その後しばらくは領内が安定せず、義鎮は常に戦いの中に身を置いていた。
そして領内がようやく落ち着いた、永禄5年(1563年)のことーー。
大友義鎮:鑑連よ。家中も、それなりに落ち着いてきた。そうは思わぬか。
戸次鑑連:・・・・・・思えませぬ。殿、この程度で安心されては困りますな。
大友義鎮:そういうな、まだまた大友を栄えさせねばならぬのは十分わかっておる。
:だが、わしも少し疲れた。ここらで心機一転、出家しようと思ってな。
戸次鑑連:・・・・・・まだまだ遊興にふける時ではございませぬぞ。
大友義鎮:わかっておる!
:おぬしらが嫌いな遊興から足を洗うために、仏門に入ると申しておるのだ。
戸次鑑連:・・・・・・大友のためになるのであれば、止めは致しませぬ。
:さればそれがしもお供いたしましょう。
:これより道雪と名を改めることに致します。
大友義鎮:(やれやれ・・・・・・忠義に厚すぎるのも、困ったものよな。)
:好きにするがよい。これからわしは宗麟と号す!
二人はそれぞれ名を改め、大友義鎮は大友宗麟と、戸次鑑連は立花道雪と名乗ることになった。
二人の力は、やがて大友家を全盛期へと導いていく。
※このプレイレポートでは、すでに大友義鎮は大友宗麟と、戸次鑑連は立花道雪と表記しています。
永禄5年1月の最上家の評定。
山形城は伊達家によって包囲されて劣勢という報告がされた。
亀ヶ森光広という家臣が、病に倒れたので安静にするという話もあった。
また鮭延貞綱に子供が生まれ、元服したら秀綱と名付けようなどという話もあった。
徳山館の改修は進み、二の丸の建築を池田盛周が行うことになった。
また徳山館の商業開発は北信愛によって行われた。
最上義光は、最前線では最上の命運をかけた戦が行われているにも関わらず、評定の内容に危機感がないのではないかとも思ったが、池田盛周などはそんな面を見せた最上義光に笑いかけ、「殿は若いの」とのたまい、周りの家臣からひんしゅくを買ったりしていた。
永禄5年1月
山形城では天童城を攻略した長門広益らの部隊が、山形城を包囲する伊達軍と激突した。
永禄5年1月。
寺池城での敗戦の詳細が伝わって来て、白鳥長久ら家臣3名が捕縛されたという報せが入った。
永禄5年1月の大友家。
ここ数年大友家との戦では敗戦続きだったが、人口の比較的多い北九州にあったことから、九州では依然として、大大名として君臨していた。
永禄5年1月の大友家。
その家臣団は文武に長けた優れた武将が多く、とりわけ立花道雪の武勇は、九州のみならず日の本中に伝わり、その噂を聞いた甲斐国の武田信玄が対面したいと希望したという逸話もある。
また、信玄の枕屏風に道雪と家臣の由布惟信らと共に諸国勇士の名が記されてあった。
永禄5年1月。
岡崎城周辺での、今川家と松平・北畠連合軍の野戦は、今川家が勝利し、総大将の岡部元信隊は岡崎城を包囲した。
しかしながら、野戦での損害も大きく、城を落とすことは出来なかった。
永禄5年1月。
肥前鹿島城を攻略した島津家はさらに北方の獅子ヶ城へ進軍を開始した。
一方で竜造寺家は肥前鹿島城奪還に動き、両軍は再び激突することとなった。
永禄5年1月。
山形城をめぐる戦いでは、天童城を攻略して南下し、山形城の包囲網を崩そうとする最上家とそれを阻止しようとする伊達家との間に激しい戦闘が行われていた。
しかし戦いは、最上家の鮭延貞綱隊が、功を焦って突撃してきた伊達晴宗の嫡男・伊達輝宗隊を冷静に殲滅し、山形城の蘆名盛氏ら包囲軍との戦いに突き進んだ。
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