信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・2(大内家の下剋上)

ここで天文20年の頃の勢力図を見ておきたい。

この頃には、戦国の世は新旧の勢力が入れ替わりを見せていた。

関東においては、北条氏康が天文15年(1546年)に河越夜戦で、関東の守護大名連合、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏を散々に破り、その勢力を盤石としていた。

戦国の世の幕開けとなる、応仁の乱の勝者となった東軍の大将を務めた細川家は、家臣の三好長慶に畿内政治の実権を奪われ、三好家は全国最大の勢力を持つ大名になっていた。

西軍の大将を務めた中国地方の大大名・山名家は、隣国の尼子経久に領土の多くを削られ、その死後も勢力は回復しなかった。

中国地方から九州地方にかけて勢力を急拡大していた強国・大内家は、月山富田城の戦いで尼子家に敗れてからは、当主・義隆は野心を失い、文治政治を行うようになっていたために、武闘派の家臣から愛想をつかされていた。

そして事件は起こった。


大内家当主・大内義隆は、月山富田城で尼子家に大敗した後、領土拡大の意欲を完全に失っていた。

義隆は尼子家との戦いを主導していた、武闘派の陶隆房らを家中政治の中枢から遠ざけ、穏健派の家臣たちに領内を任せた。

天文二十年(1551年)八月末日、武闘派と穏健派の対立は頂点に達し、ついに陶隆房は挙兵する。

大内義隆:た、隆房!何故じゃ・・・何故おぬしが!我が恩を、我が愛を忘れたと申すか!

陶隆房:義隆様・・・恩を忘れぬからこそ、私は今の大内を見ていられぬのです。

陶隆房:そして愛の終わりというものは、得てして気づかぬうちに訪れるもの・・・

陶隆房:さあ、皆のもの、義隆を討ち取れ!もう大内家に脆弱な主は要らぬのだ!


大内義隆は組織的な抵抗ができずに敗れ、大寧寺において、重臣・冷泉隆豊の介錯で自害した。

享年45歳。

辞世は「討つ者も討たるる者も諸(もろ)ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)」と伝わる。

陶隆房は大友義鎮の弟・大友晴英を大内義長と改名させて、当主に迎え、自らも陶晴賢と名を改め、政務の実権を握った。


一時はその勢いは、応仁の乱の勝者・細川家をもしのぐと言われ、日の本最強の大名とも称された大内家すらも、下剋上の世からは逃れることが出来なかった。


しかし、栄枯盛衰。

衰退する者あれば、勢力を拡大する者があった。

東北地方の一城主である最上義守も、その一人だった。


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株式投資家の暮らしと夢

初めまして、kurasitoyumeと申します。 wiki等の情報を参考に、企業情報を確認して、その銘柄の投資判断くだす記事をメインに書いてます。 サブ記事でポケモンGOレポートを書いています。

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