信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・6(檜山城の戦い)
大宝寺家を滅ぼし、北羽前の統一を成し遂げた最上家は、領内政治を本格化させる。
夫役強化で領内開発を促進しり、近隣の戸沢家と交易を目指したりした。
また大宝寺家の家臣だった安部良輝は、その後は最上家の中堅家臣として長く活躍することになる。
しかし近隣の伊達家の勢いは、最上家を上回り、天文21年12月には、磐城国の小高城を攻め立てた。
相馬盛胤は、近隣では名の知れた戦上手だったが、伊達家の5000人近い兵力の前には、1000名程度の兵力で対抗することは出来なかった。
天文22年1月、相馬家は伊達家によって滅ぼされた。
全国でも、時は移ろい、幾多の変化が間者より、最上義守に報告された。
その頃、天文21年12月、四国では長宗我部家が安芸家を滅ぼした。
畿内では京の東で強勢を誇った六角定頼が死去し、六角義賢が後を継いだ。
越後の長尾家は越中、及び北信濃への侵攻を開始していた。
伊達家の南方の岩城国で勢力を拡大していた蘆名家であったが、当主の盛舜は死期を迎えるにあたり、後継者に庶長子の氏方を指名した。
しかし蘆名家には盛氏という有力な後継者候補がいた。
その選択の誤りは、のちに蘆名家の滅亡を早めることになる。
天文22年1月、中部地方の尾張の国では、織田信長は織田信友を破り、清州城を制圧した。
織田信長:父もこの城を気に入っておったな・・・。
:なるほど、商いに向いた城下だ。
:これより俺は、この清州を居城とする。
:武士も商人も皆、那古野より移るのだ。
清州城は守りには適さなかったが、交通の要所であるため、城下町の商業の発展が見込める城であった。
これ以降、清州城は、尾張の中心地として発展していくのである。
天正22年4月、長尾家は越中国において神保家を滅ぼし、北信濃においては村上家を滅ぼした。
軍神とまで言われ始めた当主の長尾景虎であったが、北信濃においてはその長尾家に宣戦布告する大名があった。
後に天下を目指すことになる、甲斐の国の大名・武田晴信である。
天文22年5月、砥石城にて村上家と長尾家の戦闘を見守っていた武田家の飯富昌景は、葛尾城の陥落後、長尾家に宣戦を布告した。
天文22年3月、我が最上家は、羽後国の安東家討伐に出征し、2か月後の5月、檜山城近郊にて、天童頼長ら兵5000は、安東舜季率いる兵1200と激突した。
この戦いは最上家の勝利に終わり、翌6月には檜山城は最上家によって包囲された。
その頃、九州では大きな動乱が発生していた。
大友家と大内家の強大な連合軍が、阿蘇家・伊東家の連合軍と激突。
圧倒的な兵力差があり、次々と阿蘇家の城は包囲されていった。
天文22年6月、北信濃の葛尾城は、武田家当主・晴信の出陣もあり陥落。
しかし長尾家は越中より転戦してきた景虎がついに着陣。
戦国最強大名とも言われた両者の、景虎と晴信の直接対決がここに起きた。
天文22年7月、最上家の天童頼長は檜山城を攻略し、安東家は滅亡した。
安東家の当主らは全員最上家に登用された。
この子息の中から、最上家の宿老の一人が出てくることになるが、それはもう少し後の話だ。
氏家定直:殿、おめでとうございます。
:戦国大名として、まずはその名を世に知らしめましたな。
:ですが、まだ本城を一つ奪ったのみにございます。
:また、我らの力が強まるのを、好まぬ者もいるでしょう。
:ゆめゆめ、ご油断召さらぬよう・・・
最上義守:あいわかった
:南部家のことだな?
氏家定直:そうです。晴政は好戦的な男です。
:こちらから戦を仕掛けずとも、戦を避けることは出来ないでしょうな
最上義守:定直、勝てるか?
氏家定直:現状の戦力では南部家が上です。
:檜山城の修築と国力の増強を急ぎましょう。
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