信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・10(九州地方の戦火の拡大)
九州地方の大名間の争いが激しさを増してきていた。
相良家の佐敷城には、島津家が侵攻していたが、救援に訪れた龍造寺家に撃退されていた。
しかし龍造寺家と敵対する大友家は、佐敷城にも侵攻。
4大名が入り乱れて戦う乱戦の地となった。
最後まで戦場にとどまり、城を包囲したのは大友家だった。
天文23年5月、南部晴政隊は花巻城を攻略し、稗貫家は滅亡した。
天文23年5月、大友家の土持親成隊は、佐敷城を攻略し、相良家は滅亡した。
九州地方南部にまで大友家の勢力は広がり始めたことで、大友家は龍造寺家だけでなく、島津家とも敵対関係になる。
九州で勢いのある2大名と対峙するのは、さすがに大友家でも負荷が大きいという見方は、大友家内でも出てきていた。
一方で島津家から見れば、相良家の家臣団が大友家に取り込まれたのは、少なからず痛手だった。
島津家の家臣団は数も質も優れていたが、大友家と比べると、まだ万全ではなかったからだ。
最上家は南部家の南方侵攻を食い止めるため、斯波家と手を組むことを考えた。
その外交団には筆頭家老・氏家定直の息子、氏家守棟が選ばれた。
四国では、長らく大名間の大きな戦はあまりなかったが、天文23年6月、長宗我部家が本山家に戦を仕掛けたことから、戦乱の世に突入していく。
天文23年6月、島津義弘は大友家のものとなった佐敷城に向けて、進軍を始めた。
この頃の勢力を少し見ていこう。
九州の大友家が急速に力をつけているのがわかる。
我ら最上家も力をつけ始めていて、石高では南部家を上回り始めた。
天文23年6月、島津義弘隊は佐敷城を攻略するも、大友家の重臣・立花道雪隊が佐敷城奪還に向けて進軍した。
ここに九州で最も強いと言われた、二人の戦国武将の戦いが幕を開けた。
九州北部では、龍造寺家が度々、勢福寺奪還に向けて兵を出したが、九州のもう一つの大国・大内家が大友家側についていたために、勝利は得られなかった。
北陸地方では、本願寺家と畠山家の戦が激化していたが、長尾家はその争いに加わることなく、戦力を蓄えていた。
天文23年7月、長宗我部元親隊は朝倉城を包囲したが、河野家の救援が間に合い、城外で戦闘が開始された。
肥前国ーー
龍造寺家当主・龍造寺隆信は、隣国・大友家の圧迫に耐えかね、一つの賭けに出る。
きっかけは、重臣・鍋島直茂の提案であった。
鍋島直茂:我らも苦しんでいますが、大友の者たちも長き戦いに倦んでおります。
鍋島直茂は隆信の重臣であり、隆信の母・慶誾尼の義理の息子でもあった。
つまり、隆信とは義兄弟の間柄である。
常に冷静沈着であり、荒武者の多い龍造寺家の中で、その智謀を武器に活躍していた。
鍋島直茂:敵の軍紀にも乱れが見えまする。
:近頃はしばしば酒宴も開かれているとか。
龍造寺隆信:・・・・・・うむ。
鍋島直茂:寡兵の我らが勝利する機は、今をおいて他にありますまい。
:夜討ちを、お考えくだされ。
龍造寺隆信:うむむ・・・・・・しかし・・・・・・。
数時間後ーー
龍造寺隆信:直茂、わしは決めたぞ。
:お前の言うとおり、夜討ちを仕掛ける!
鍋島直茂:よくぞご決心なされましたな。
龍造寺隆信:いや、母上が・・・・・・。
:武士ならば命を賭して戦え、とおっしゃってな
鍋島直茂:そうでございましたか。
:実は、私めも同じお叱りをうけました。
龍造寺隆信:なんと、お前もか!
:はっはっは、母上にはかなわんのう!
隆信は、母である慶誾尼の叱責を受けて、大友軍への夜襲を決意。
直茂の指揮による部隊は、油断しきった大友軍への奇襲を見事に成功させ、大戦果を挙げる。
この結果、龍造寺家は大友家からの圧迫から解放され、飛躍の契機を掴むのであった。
河野家の救援を撃退した長宗我部元親だったが、今度は一条家からの救援部隊と戦うことになった。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「佐賀県」を検索してみましたら、2,909 件の画像がヒットしましたよ。
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