信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・19(VS南部家!陸中国、侵攻戦)
天文24年11月に、最上家の横手城の特産品が流行した。
これにより金5000が入庫された。
南部家との大戦が始まった折であり、最上家にとっては僥倖だった。
最上義守は、特産品の流行で得た資金で、商人より名馬・桜野を購入し、旧宗主国の伊達晴宗に献上した。
また長尾家との外交を担っていた氏家守棟を、友好関係を強化すべく、伊達家に向かわせた。
南部家との戦でほぼすべての戦力を向けていたこともあり、南方より伊達家が攻め込んで来ないよう工作した。
天文24年11月、安東愛季隊は九戸政実隊は激突した。
両軍はほぼ互角の戦力で激戦となったが、南部家は度重なる戦で諸勢力の兵力が減っていたこともあり、九戸政実隊は退転。
安東愛季隊の独鈷城救援を阻止することが出来なかった。
またこの報告を聞いた天童頼長は、横手城から出陣した小野寺輝道隊兵1000も無事に独鈷城救援に向かっているのも確認した上で、自らの進路を陸中国に変更した。
天文24年11月、松平家は郡上八幡城を攻略した。
斉藤家の崩壊が始まった。
天文24年11月。
小野寺輝道隊は石川高信・北信愛隊を撃退し、独鈷城の救援に成功した。
そしてこの月、後奈良天皇が退位され、正親町天皇が即位した。
元号は天文から弘治となった。
この時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。
弘治元年12月、天童頼長ら兵6000は、花巻城に向けて進軍した。
一方南部家は高水寺城を攻略した南部晴政が、疲弊した状態であったが、兵1000にて花巻城に向かい、そして両軍は激突した。
この戦いは最上家の圧勝だった。
この報を受けた伊達家は、最上家の強大化を危惧し、この月に北条家と同盟を締結した。
弘治元年12月、葛尾城での戦いは、武田晴信隊が岩村城から帰還したこともあり、再び武田家の勝利となった。
弘治元年12月、六角家は長年抗争が続いていた浅井家と同盟し、大垣城に攻め込んだ。
浅井家、武田家、松平家から攻められ続けた斉藤家には、もはや応戦する力はなく、その月のうちに城は陥落した。
弘治2年1月。
本願寺証如が死去し、本願寺顕如が跡を継いだ。
弘治2年1月、最上家は陸中国の支城へ次々と攻め込んだ。
独鈷城防衛に成功した小野寺輝道隊を雫石御所攻略に向かわせ、天童頼貞は花巻城を早々に攻略した。
そして天童頼長は陸中国の本城である、高水寺城にとりつき、翌月に城は落城した。
南部家は再び石川高信に兵1100を預け、独鈷城攻略に向かわせたが、安東愛季の援軍が再び現れ、敗退することとなった。
弘治2年2月、本国へ帰還する天童頼長隊に、葛西家の部隊が立ちはだかった。
兵力をほとんど喪失していない天童頼長隊はこれに応戦し、葛西家と交戦状態になった。
戦は多くの武将の心理を不安定にした。
最上家優勢で南部家との戦は進んでいたが、不安に駆られ、南部家に寝返るものもいた。
また逆に南部家の猛将・九戸政実は、南部家の将来を憂い、葛西家に寝返った。
弘治2年3月、天童頼長は迎撃に来た葛西家の柏山明吉隊を撃破し、胆沢城を包囲して降伏させた。
翌月には鳥海城へ侵攻し、南部家から葛西家に寝返った九戸政実と交戦し、これを撃退して城を包囲した。
また天童頼貞隊は多くの戦死者を出しながらも雫石御所を攻略した。
中部地方は斉藤家の力が弱まったことで、各国のパワーバランスが崩れ、戦が頻発した。
六角家は長野家へ侵攻し、その隙をついて、松平家は六角家の大垣城へ侵攻した。
これに対して、浅井家は六角家の救援に向かった。
三好家は六角家の伊賀上野城へ侵攻し、六角家は北畠家と停戦し、救援を求めた。
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「岩手県」を検索してみましたら、13,708 件の画像がヒットしましたよ。
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