信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・29(伊達家VS佐竹家、毛利家VS尼子家)
伊達家と蘆名家の開戦の報告を悲痛な思いで聞いた者がいた。
常陸国の大名・佐竹義昭である。
佐竹家は肥沃な関東平野東部を支配する大名で、関東の覇者・北条氏もその勢力は侮りがたく、未だに侵攻は控えている大名だった。
しかしその佐竹家も、北の伊達家が蘆名家を制圧して強大化してしまうと、もはや両大国に押しつぶされる以外に道はなくなり、滅亡の道しか残されていなかった。
そのため、戦況には多くの間者を使って注視していたが、伊達家有利という一報を受けて、ついに重臣を集めて言い放った。
「伊達を討つ!」
永禄元年9月、佐竹家は総勢4000で、伊達家の飯野平城に侵攻した。
伊達家は、相馬盛胤を主将として、総勢4300で迎え撃った。
永禄元年9月、毛利家は長年の宿敵であった尼子家討伐のため、大軍勢で出陣した。
山吹城には二男の吉川元春ら兵4000で、三刀屋城には当主・毛利元就が兵2500で、羽衣石城には三男の小早川隆景兵3000が、そして福原貞俊ら兵3000が月山富田城に侵攻した。
対する尼子家は東方の山名家とも戦を始めていたため、山吹城で尼子誠久が兵1500で出陣し、三刀屋城から戸川秀安が兵500で迎撃に出た以外は、ほとんど何の抵抗も出来なかった。
翌月にはこの4つの城は全て毛利家によって包囲された。
その10月、山吹城と羽衣石城は陥落し、毛利家のものとなった。
永禄元年9月、大友家は龍造寺家と停戦し、大内家の九州最大の拠点であった立花山城へ侵攻した。
大友家総勢8000、龍造寺家総勢3000の大軍勢であった。
龍造寺家は情勢挽回の最後のチャンスとして、大内家と共闘して大友家と戦うのではなく、この大内家の堅城・立花山城をかすめ取り大友家と対峙する道を選んだ。
もはや大友家は、龍造寺家が正攻法で戦える相手ではなくなっていた。
しかし10月、立花山城は大友家によって攻略された。
永禄元年9月、伊達家は黒川城を攻略し、蘆名家は滅亡した。
この戦いでは、鬼庭左月斎が鬼神の働きをし、伊達家随一の武将として認められるようになった。
当主・晴宗は、大いにこのことを喜んだ。
伊達家には、戦上手な武将がいないわけではなかった。
とりわけ小梁川宗朝という男などは、最上家の猛将・天童頼長ですら尻尾を巻いて逃げることもあるという強者だった。
しかしこの男は、伊達家と最上家の間で起こったある事件を境に、戦の第一線から退いていた。
その事件が伊達家には重くのしかかり、家臣団の士気は長らく上がらなかったが、今回の戦は伊達家を東北地方の覇者にする決定的な一線であり、そこで鬼庭左月斎が見事な戦ぶりを見せたことで、伊達家家中の士気は流れを一変させた。
当主・晴宗は、何よりもこのことを喜んだのだった。
しかし小梁川宗朝絡みのその事件は、これで終わるものではなかった。
その事件は、のちに奥州最大の大事件へと発展するのである。
小梁川宗朝の事件とはいったい何だったのか。
奥州における歴史物語は、いよいよ佳境に入ろうとしていた。
永禄元年9月、南部家は小城である野辺地城からも石川城救援に兵を出した。
この頃には最上家の後詰も到着し、最上家は万全の体制で迎え撃ち、翌月には撃退した。
永禄元年9月、山形城の改修が終わった最上家は大聖堂や教会をたて、宗教心にも支えられて、奥州最大の大兵団を従えるようになっていく。
永禄元年10月、伊達家の相馬盛胤隊は佐竹家を見事撃退した。
鬼庭左月斎と相馬盛胤という二人の猛将が、伊達家を奥州の覇者へと押し上げ始めていた。
永禄元年10月、武田家は松平家の郡上八幡城に対し、三度目の侵攻を行った。
永禄元年10月、石川城を包囲する天童頼長は、後詰が到着し、兵力が3000を超えたところで、兵糧攻めから再び総攻め号令した。
永禄元年11月の評定。
キリスト教を容認するなど新しい取り組みを進める最上家は、もはや保守的な家ではなくなっていた。
そのことに不満を持つ旧臣もいたが、勢力が拡大し、新たに家臣となるものが多かったこともあり、総じて評判は悪くなかった。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「月山富田城」を検索してみましたら、 25 件の画像がヒットしましたよ。
http://amanaimages.com/keyword/result.aspx?Page=Search&KeyWord=%8c%8e%8eR%95x%93c%8f%e9&ImageID=
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