信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・30(最上家が石川城攻略!)
毛利家の進軍は尼子家に対する攻勢は止まらなかった。
毛利家当主・毛利元就隊が攻め立てていた三刀屋城も永禄元年10月には陥落していた。
永禄元年11月、武田家の松平家への侵攻に便乗して、斉藤家は再び大垣城の奪還に動いた。
連戦連敗となっていた尼子家だったが、人がいないわけではなかった。
永禄元年11月、山陰地方では剛の者として知られた本城常光は、八橋城より兵1500を率いて、小早川隆景隊に攻略された羽衣石城の奪還に動いた。
しかし小早川隆景隊の兵の損傷は少なく、小早川隆景隊は2500の兵でそれを迎え撃った。
尼子家の本城である月山富田城は、中国地方随一の堅城として知られていた。
永禄元年11月、毛利家の嫡男・毛利隆元は兵3000でこれを囲んだが、城の士気は全く落ちる気配はなかった。
永禄元年11月、最上家は長い戦いの末、小野寺輝道隊が決死の突撃を敢行し、ついに石川城を攻略した。
永禄元年11月、石川城を攻略した最上家の部隊の大部分は、さらに北上し、蠣崎家との開戦を望んだが、天童頼長隊は石川城に入城し、戦後処理を急いだ。
この時は捕えていた戸沢道盛らを登用したが、南部家の家臣の多くは、当主・晴政が城を脱したという知らせを受けていたため、登用を拒否した。
この者たちを処刑するよう進言する者もあったが、義守はそれを許さず、捕虜は解放された。
南部家の家臣団の吸収なくして、伊達家との戦は出来ぬことくらいは知っていたからだ。
永禄元年12月、石川城を攻略した天童頼貞隊らは陸奥小国の地に向けて軍勢を向かわせた。
その途上にある陸奥福島城の城主・長門広益は、最上家の軍勢の多くが石川城攻めで疲弊していることを見て取り、最上家の軍勢をやり過ごさず、迎え撃つため出陣した。
蠣崎家兵1200、最上家総勢兵1800の戦いになった。
永禄元年11月、松平元康隊の救援が間に合わず、武田家はついに郡上八幡城を攻略した。
同年12月、松平元康隊が到着、原虎胤隊と交戦を開始した。
松平家の郡上八幡城は陥落したが、大垣城の方は織田家の佐々成政隊が救援に駆けつけ、斉藤義龍隊を撃退した。
永禄元年12月、近畿地方北部では、毛利家との戦で尼子家が弱体し、その脅威が和らいだ山名家が、一色家の弓木城へ侵攻した。
南条宗勝らが兵2500を率い、一色家は当主・義道が出陣し、こちらも兵2500でこれを迎え撃った。
永禄元年12月、毛利家は児玉就方隊らを新山城攻略に向かわせ、その月のうちに攻略した。
また尼子家の本城・月山富田城では、毛利隆元らの猛攻を受け、また各地の支城陥落の報が入るにつれ、城内には動揺が走り始めていた。
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「毛利元就」を検索してみましたら、 23 件の画像がヒットしましたよ。
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