信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・33(稲葉山城落城と斉藤家の滅亡)

永禄2年5月。

この頃四国では、大名間の勢力争いは膠着状態が続いていた。


急激に勢力を拡大した長宗我部元親であったが、河野家を滅ぼすところまではいけなかった。

逆に隣国の一条家が、勢力を拡大しようと西園寺家に攻撃を仕掛けてくるのを救援したりと、領土拡大によってすべきことが増え、その対応に忙殺された。


永禄2年6月、織田家は武田家に対し、宣戦布告した。

柴田勝家を先陣に、信長自らも出陣して、総勢12000の兵で岩村城に向かった。

対する武田家は、稲葉山城への侵攻のために守備兵が足りず、信濃国から馬場信房らが救援に向かった。

ただその兵力は5000にも満たないものだった。


また織田家は松平家とともに、郡上八幡城へも進軍した。

これに対しては、武田家は稲葉山城を囲っていた軍勢を一部郡上八幡城の救援に向かわせた。

永禄2年5月、織田・松平連合軍と武田家は、稲葉山城東方で激突した。

兵の数は織田家5千、松平家4千に対して、武田家は5千だった。



永禄2年6月、織田家が武田家との戦にほぼ全軍を向かわせたのを見て、敵対関係にあった伊賀国の六角家は、総勢5千で織田家の長野城へ侵攻した。



永禄2年6月、中国地方での大内家の粘り強い奮戦の報を間者から聞いた島津家は、大友家を背後から揺さぶろうと、一門の尚久に兵1000を与えて、高森城へ侵攻させた。

当主・貴久は、この戦では勝てるとは考えていなかったが、大友家の勢力拡大を少しでも遅らせることが、今後の両家の戦いに大きな影響を与えると考えていた。



関門海峡は自らの海とばかり、大内家はこの戦いでは良く善戦したが、櫛崎(くしざき)城はなにぶん小さな城だった。

この戦いでは大友宗麟自ら出陣していたが、今回の勝利も疑うことはなかった。

永禄2年6月、武田家の高坂昌信隊は、稲葉山城攻略した。

これにより斉藤家は滅亡した。

この勝利は遠く都の帝にまで伝わり、武田信玄はその後、大膳大夫に就任した。


永禄2年7月の評定。

最上家は本城の山形城が最南端にあり、他の国の本城が直轄化出来なかったために、領土拡大の割には収入はそれほど増えていなかった。

しかしそれでも、外部への侵略を進め、北羽前本国では平和が続いたために、国内の発展は続いた。

真室城などでは、商業区画に三斎市などが作られた。



永禄2年7月。

この頃は最上家は石川城攻略戦で疲弊した兵力の回復に勤めていた。

しかしながら、蝦夷地の蠣崎家と東陸奥の南部家とは交戦状態を維持するために、蠣崎家へは最上義守自ら、そして南部家へは鮭延貞綱が度々攻撃を仕掛けた。


永禄2年7月。

この頃北陸の覇者である長尾家は、佐渡島に渡り、その支配権を確立した。

その使命を果たしたのは、小笠原長時という武将で、島に雑太城という支城を築いた。


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株式投資家の暮らしと夢

初めまして、kurasitoyumeと申します。 wiki等の情報を参考に、企業情報を確認して、その銘柄の投資判断くだす記事をメインに書いてます。 サブ記事でポケモンGOレポートを書いています。

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