9005 - 東京急行電鉄(株)
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株価は2017年7月27日「分割: 1株 -> 0.5株」していますが、それを勘案しても、株価上昇しています。
今回は東急と五島家の関係から見ていきましょう。
1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている。
また、渋沢の子である渋沢秀雄も田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などをつとめていた。
しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認知されている。
これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を経営していた小林一三がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降、五島を中心に、同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急グループが形成されたからである。
とは言え、東武鉄道の根津家や西武鉄道の堤家とは異なり、五島は資本による会社支配は行わなかった。
つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業の小佐野賢治が筆頭であった。
また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。
五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長をつとめたが、東急本社の社長には就任せずに他界したため(五島昇は哲の社長就任を望んでいたといわれる)、現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。
歴史
前史
東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一が理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に、1918年(大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市の分譲を開始 していた田園都市株式会社を始祖とし、その鉄道部門を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄(めぐろかまたでんてつ)に始まる。
会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った。
つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、戦後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている。
この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、すでに 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。
実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ」と自身の代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した。
こうして1922年(大正11年)10月、目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。
しかし、田園都市株式会社、及び目黒蒲田電鉄の経営も「私自身本来の眼目であった」武蔵電気鉄道((旧)東京横浜電鉄)の開業を期すための手段という位置づけであった。
まず、1923年(大正12年)3月に目黒 - 丸子(現在の沼部)間を開業、洗足田園都市の居住者に交通の便を提供し、8月には多摩川台地区の分譲も始めた。
同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く、また11月には目黒 - 蒲田間を全通させることができ目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。
次に、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身)[注釈 22]は1926年(大正15年)2月に丸子多摩川(現在の多摩川) - 神奈川間 (神奈川線、14.7 km) を開通させ、目蒲線との相互乗り入れにより、目黒 - 神奈川間の直通運転を開始した。
そして翌1927年(昭和2年)8月には渋谷 - 丸子多摩川間 (渋谷線、9.1 km) を開通させ、渋谷 - 神奈川間(23.9 km)の直通運転を開始して、東横線と呼んだ。
東横線は五島慶太が最も精魂を傾けて建設した路線だと言われている。
1932年(昭和7年)3月には桜木町まで延長、東横線が全線開業した。
これら沿線に1925年(大正14年)12月、多摩川園を開園、1934年(昭和9年)11月、渋谷に東横百貨店を、田園調布に田園テニス倶楽部を、1936年(昭和11年)に田園コロシアムを作るなど沿線住民の利便性を高めた。
「乗客は電車が創造する」と言った小林一三が阪急で用いた手法を五島慶太は継承したのである。
しかしそれだけでなく、大学等の学校を誘致する。
まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を蔵前から目蒲線の大岡山に土地の等価交換により移転させることに成功した。
そして、1929年(昭和4年)には慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。
1931年(昭和6年)に日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(後の東京都立大学、現:首都大学東京)を八雲に誘致、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学)を世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は田園都市としてだけでなく学園都市としての付加価値も高まっていくことになり、かつ多くの通学客という安定的な乗客の獲得にもつながった。
また、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)12月にかけて大井町 - 二子玉川間を開通させ大井町線と呼んだ。
その後、五島慶太は事業拡大に乗り出す。
まず、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を買収・合併した。
目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道は開業当初から開発地域が競合していたが、その一方で合併話も持ち上がっていた。
「当時の池上電鉄は経営が苦しいのに有利な条件を出しゴタゴタ言ってきた」そこで、経営者の後藤国彦とオーナーの川崎財閥とはうまくいっていないことを利用し、1933年(昭和8年)5月、五島慶太は、川崎財閥の総帥川崎肇から「池上電鉄の株、全部で一二万株のうち八万五千株を一夜にして買ってしまい、万事うまくいった」と買収して乗っ取ってしまったのである。
次に、(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道(玉川線(現在の田園都市線の一部となった新玉川線の前身)および、世田谷線の母体)を買収・合併した。
(旧)東京横浜電鉄は、当時渋谷の開発をめぐり玉川電気鉄道と競合していたが、五島慶太は同時に抱えていた地下鉄道建設を目的で設立された東京高速鉄道の案件で、渋谷駅の建設をするのに玉川電気鉄道の協力が必要だった。
また玉川電気鉄道の電灯電力供給事業も欲しかった。
そこで千代田生命と内国貯金銀行が持っていた玉川電気鉄道の株五万六千株を買収、1936年(昭和11年)10月、五島慶太が社長に就任、乗っ取りに成功し、1938年(昭和13年)4月には(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を合併した。
そして、目黒蒲田電鉄は1939年(昭和14年)10月1日に(旧)東京横浜電鉄を合併し、10月16日に、名称を逆に(新)東京横浜電鉄(とうきょうよこはまでんてつ)と改称した。
この合併にあたり、歴史が長く東急電鉄の幹線となる東横線を運営する(旧)東横電鉄を主体とし、目蒲電鉄をこれに併合する予定であったが、資本の流れの問題もあり、まず目蒲電鉄が東横電鉄を併合し、目蒲電鉄を形式上の存続会社とし、名称を逆に東横電鉄とした。
この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。
なお、田園都市株式会社は1928年(昭和3年)5月に、多摩川台地区などの分譲が完了したため、子会社である目黒蒲田電鉄に吸収合併されたが、デベロッパーとしての東急不動産の始祖でもあった。
「大東急」の時代
1938年(昭和13年)4月、電力国家管理法が公布され、1939年(昭和14年)4月に国策会社日本発送電が発足する。
このことにより小田原急行鉄道の親会社である鬼怒川水力電気は、得意先(売電先)を失うなどして経営が悪化する。
それに伴い小田原急行鉄道も経営が悪化し、社長であった利光鶴松が五島慶太に経営を委ね、1939年(昭和14年)10月、五島は小田原急行鉄道の取締役会で取締役に選任された。1941年(昭和16年)3月に小田原急行鉄道は、経営再建のため鬼怒川水力電気と合併し(旧)小田急電鉄と社名変更し、同年9月には五島慶太が社長に就任した。
前節で触れた東京高速鉄道は、渋谷 - 新橋 - 東京間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥の門野重九郎、脇道誉と小田原急行鉄道の利光鶴松が組んで設立しようとした会社で、当時の東京市は山手線内の鉄道施設権を独占していたが財源が無く東京高速鉄道に地下鉄道の施設権を譲渡したのであった。
しかし東京高速鉄道も資金難であり、第一生命の創業者であり東京横浜電鉄の社長だった矢野恒太[注釈 34]に相談すると「東横電鉄の五島慶太を参加させること」を条件に出資し五島が常務(事実上の経営者)に就任、1934年(昭和9年)9月、会社は設立された。
五島は、東京高速鉄道の渋谷から新橋までの運営は、すでに浅草 - 神田 - 新橋間で開業(1934年(昭和9年)6月に全通)していた東京地下鉄道と結んだ方が経営上の効率が良いと判断し、また東京市との約束「将来において東京地下鉄道と合併を条件に施設権を譲渡する」もあり、東京地下鉄道と交渉し両社間で直通することで半ば強引に合意した。
しかし、東京地下鉄道側は合意に反し、1937年(昭和12年)3月、京浜電気鉄道と結んで京浜地下鉄道を設立し、東京高速鉄道との直通ではなく新橋から品川方面への延伸計画を発表した。
これに対し五島は、東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、1938年(昭和13年)1月、まず同社の大株主であった前山久吉(内国貯金銀行頭取)から株式を入手、次いで1939年(昭和14年)3月、京浜電鉄会長である望月軍四郎からも入手、東京高速鉄道は京浜電鉄株の過半数を所有、同年4月、五島慶太が京浜電気鉄道の取締役となり傘下とし、同時に姉妹会社である湘南電気鉄道も傘下におさめ、6月に五島慶太は京浜電鉄の専務に就任、1941年(昭和16年)11月には社長に就任した。
その東京高速鉄道であるが、1938年(昭和13年)12月、渋谷から虎ノ門間を開通し、1939年(昭和14年)1月には新橋まで延伸したが、前述の東京地下鉄道側の抵抗により東京高速鉄道の新橋駅を別に建設しての運行を余儀なくされていた。
しかし同年8月には、東京地下鉄道の株も大株主の穴水熊雄から買収し、やっと9月に東京高速鉄道と東京地下鉄道との新橋駅での相互乗り入れが始まった。
結局1941年(昭和16年)9月、陸上交通事業調整法により、両社は京浜地下鉄道と共に新たに発足した帝都高速度交通営団に併合され、地下鉄に関しては五島の乗っ取りはかなわなかった。
そして、1942年(昭和17年)5月1日に、陸上交通事業調整法による戦時統制の背景もあり、同じ五島慶太が社長を務める(旧)小田急電鉄を譲受・合併、京浜電気鉄道を買収・合併して、商号を東京急行電鉄と改称した。
さらに、1944年(昭和19年)5月31日には、やはり電力国家管理法により電灯電力給電事業が奪われて経営が悪化していた京王電気軌道を買収・合併した。
前述の通り(旧)小田急電鉄は五島慶太に経営の再建を委ねたのであるが、その他の池上電気鉄道、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、京王電気軌道の買収・合併は、つまりこの「ライバルや敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われ、これらの会社を「あたかも札束をもって白昼強盗を働くように買収」し、その強引なやり方から、五島は名字をもじって「強盗慶太」なる異名をとっていた。
またこれら4社以外にも、1941年(昭和16年)11月までに、その資本力にもの言わせ買収した会社は、相模鉄道、静岡電気鉄道、江ノ島電気鉄道、神中鉄道など、30社以上に達した。
さらに1944年(昭和19年)2月には五島慶太が運輸通信大臣に就任した。
この時期までに路線延長は約320kmにもおよび、北は中央線から南は三浦半島、西は箱根までをテリトリーとするいわゆる「大東急」の時代となる。
しかし、戦後は一変、独占禁止法や過度経済力集中排除法が施行される。
「大東急」はこれらの法律の適用から除外されたものの、「大東急も当てはまる」と主張する(旧)小田急電鉄関係者を中心にかつての4社への復元運動が勃発する。
これを受けて経営陣は会社経営の民主化に乗り出す。
また、戦中の空襲での被害が沿線地域に集中しており、復興するためには一企業での資金調達が限界があり困難となったため、まず1947年(昭和22年)相模鉄道や静岡鉄道など傘下会社の持株の大部分をその会社の役職員などに譲渡し放出(相模鉄道の運営受託は持株放出直前の同年5月31日に終了している)。
そこへ8月、五島慶太が公職追放に追い込まれる。
そして1948年(昭和23年)5月に百貨店部門を東横百貨店(現・東急百貨店)に分離し、6月に小田急電鉄、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)[注釈 42] を分離させ、大東急の「再編成」を行った。
ただし、三私鉄の分離独立後も、各社の幹部人事は五島慶太が指示しており、長男の五島昇を小田急、京急、京王帝都の取締役に就任させていた(五島昇が死去する1989年(平成元年)まで続いた)。
その他、京王帝都の三宮四郎社長(東急出身)が大映の曾我正史専務と組んで、映画会社日映設立の動きを見せると、当時、財務基盤が脆弱だった京王帝都の中核事業以外への過剰投資を憂慮した東急側の意向により、日映設立を中止させ、三宮社長を事実上更迭した例(日映事件)や、西武鉄道と激しく抗争した箱根・伊豆開発では小田急の安藤楢六社長を通じて代理戦争を演じた例(箱根山戦争)など、戦後しばらくは東急系三私鉄は、東急の衛星企業として機能した。
大東急の名残として、東横目蒲電鉄健康保険組合(1935年4月1日設立)を祖とし、東京急行電鉄、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道、東映、関東バスおよび小田急電鉄の母体事業所および子会社などを含めた健康保険組合である、東京西南私鉄連合健康保険組合(1948年改組)の存在があげられる。
近年、小田急グループは分離独立したが、2003年(平成15年)4月1日、東急車輛健康保険組合との合併を経て現在に至っている。
また、合併されていた4私鉄は現在でも電動車の形式記号に「モ」ではなく「デ」を使用している。
また、五島昇が社長・会長をつとめていた当時は、東急系の京王帝都、京急、小田急各社の非常勤取締役に就いており、系列の東急エージェンシー、東急レクリエーションは、現在でも上記3社とは資本的、人的関係を有するのも大東急の名残といえる。
東急電鉄 駅メロディー集 (2017年度版)
東京急行電鉄 の企業紹介動画が、ユーチューブ上では一つも見つかりませんでした。
私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )などに制作依頼すれば、素敵なものが出来ると思うのですが。
投資判断ですが、時価総額は売上高とほぼ同等で、営業利益率は約7%です。
割安感があります。
チャートはボックス相場で、信用倍率は3倍です。
若干信用倍率が高いのですが、ファンダメンタルの割安さは魅力です。
私の投資判断は買いです。
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