9008 - 京王電鉄

前回は2016年5/7(翌営業日5/9)に923円で、買い判断していますね。

https://ameblo.jp/kurasitoyume/entry-12158007108.html 

2017年9月27日に「分割: 1株 -> 0.2株 」していますので、株価を5倍して比較すると、若干株価は上昇していますね。

ひとまず正解でしょう。


京王電鉄株式会社(けいおうでんてつ、英: Keio Corporation)は、東京都南西部から神奈川県北部に鉄道路線を有する鉄道事業者で、大手私鉄の一つです。

京王グループの中核企業で、略称は京王(けいおう)です。

日経225(日経平均株価)の構成銘柄の一社です。

京王という名称の由来は、東京と八王子を結ぶ鉄道であることから。また、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄(共に後述)の路線で発足した経緯から、1998年6月30日まで京王帝都電鉄(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝都・京帝、英称:Keio Teito Electric Railway、英略称: KTR)という社名でした。

パスネットの符丁はKOです。

東京中西部に鉄道、バス網があり、不動産ではホテルや百貨店等展開しています。

子育て支援等沿線活性策をしています。

財務良好です。


今回は歴史を終戦まで見ていきましょう。

現在の京王電鉄は、元々資本の異なる旧京王電気軌道(京王線の営業をしていた会社)と旧帝都電鉄(井の頭線の営業をしていた会社)が、第二次世界大戦時の戦時統制を経て発足したため、それぞれ個別に記述する。


京王電気軌道・玉南電気鉄道

現在の京王電鉄の歴史は、1905年(明治38年)12月12日に、日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願したことにまで遡る。この時出願した路線は、官設鉄道蒲田駅から調布町、府中町を経て甲武鉄道立川駅に至る路線と、府中で分岐し内籐新宿に至る路線の二つであった。

日本電気鉄道は1906年(明治39年)8月18日に武蔵電気軌道株式会社と改称し、新たに立川村内と府中 - 国分寺間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を国領で分岐し蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。

その後、1910年(明治43年)4月12日に武蔵電気軌道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立され、鬼怒川水力電気取締役の川田鷹が取締役会長に、初代専務取締役(社長)に鬼怒川水電社長利光鶴松の係累である利光丈平がに就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は1911年(明治44年)7月4日に関係官庁より許可が出た電気供給事業のみ執り行っており、1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村に電気供給を行っていた。

そして、1913年(大正2年)4月8日に、玉川電鉄と東京電燈から買った電力を笹塚変電所 (100kW) で受けて、4月15日に笹塚駅 - 調布駅間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - 国分寺駅間の乗合自動車営業(路線バス事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、森村財閥の融資系列に入り、富士瓦斯紡績の井上篤太郎(第3代専務)、藤井諸照(会長)が経営陣に参画することになる。その後は1914年(大正3年)11月19日の京王線の新町駅(現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。また、1923年(大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、1919年(大正8年)4月には多摩川原駅前での造園事業も行った。

また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から国分寺村に、1915年(大正4年)8月から谷保村・立川村に、同年10月から小平村・田無村に、同年11月から保谷村に、1916年(大正5年)1月から拝島村に、同年2月から中神村他七カ村連合に、同年7月から神代村・和田堀内村・千歳村・高井戸村・松原村に、1917年(大正6年)3月から三鷹村に、同年8月から砧村に、1919年(大正8年)4月から稲城村に供給した。1922年(大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500 kW の受電を開始し、1923年(大正12年)3月から狛江村への電気供給を開始した。

一方、府中駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間は、1922年(大正11年)に設立された京王の関連会社である玉南電気鉄道株式会社によって1925年(大正14年)3月24日に営業を開始した。これは国からの補助金を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を軌道法に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した地方鉄道法に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の中央本線に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。

その後、1926年(大正15年)12月1日に京王電気軌道が玉南電気鉄道を併合し、資本金1290万円の会社となる。1927年(昭和2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067 mm から1,372 mm へ改軌する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は1928年(昭和3年)5月22日のダイヤ改定まで続いた。

1931年(昭和6年)3月20日には、初の支線である御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通したり、1932年(昭和7年)4月の高尾登山鉄道との連帯運輸の開始を皮切りに、帝都電鉄、省線電車などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道の軌道線も1938年(昭和13年)6月1日に買収し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、翌1939年(昭和14年)6月30日をもって休止、同年廃線にしている。

後の1937年(昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力に移り同社専務の穴水熊雄が社長に就任、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅 → 桜上水駅・上高井戸駅 → 芦花公園駅・多磨駅 → 多磨霊園駅・関戸駅 → 聖蹟桜ヶ丘駅・百草駅 → 百草園駅・高幡駅 → 高幡不動駅・多摩川原駅 → 京王多摩川駅、など観光地であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれており、一定の先見の明があった施策といえる。

また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央電気鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の京王堀之内駅・南大沢駅周辺の地域名称) - 相模原駅間で運行)の買収を行っている。

他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月に不動産事業を開始した。

しかし、第二次世界大戦の勃発で、1942年(昭和17年)前半には、陸上交通事業調整法に基づき、東京市内のバス路線の東京都への譲渡や、配電統制令により電力供給事業を関東配電株式会社(東京電力の前身)に譲渡することとなり、経営に大打撃を被る。そして、1944年(昭和19年)5月31日には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、大株主であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった東京急行電鉄へ株式を譲渡することとなり、いわゆる大東急の一員となる。京王は東急に吸収合併され、京王電気軌道は法人としては解散・消滅した。この合併で、会長の井上篤太郎は東急相談役に、井上の片腕であった取締役の後藤正策と、社長の穴水熊雄の次男穴水清彦(後に相模鉄道会長)は、東急取締役に就任した。


年表

1905年(明治38年)12月12日 日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願する。

1906年(明治39年)8月18日 日本電気鉄道株式会社が武蔵電気軌道株式会社に改称する。

1910年(明治43年) 4月12日 武蔵電気軌道株式会社が京王電気軌道株式会社に改称する。

9月21日 資本金125万円で京王電気軌道株式会社設立。

1913年(大正2年)4月15日 軌道法に基づく京王電気軌道が笹塚駅 - 調布駅間を開業。軌間1,372mm。

1914年(大正3年)11月19日 新町駅(現存せず) - 笹塚駅間が開業。

1915年(大正4年)5月30日 新宿追分駅(現存せず) - 調布駅間が全通。

1916年(大正5年) 6月1日 調布駅 - 多摩川原(現・京王多摩川)駅間が開業。

9月1日 調布駅 - 飛田給駅間が開業。

10月31日 飛田給駅 - 府中駅間が開業。

1922年(大正11年) 玉南電気鉄道が設立される。

1925年(大正14年)3月24日 地方鉄道法に基づく玉南電気鉄道が府中駅 - 東八王子駅間を開業。軌間1,067mm。

1926年(大正15年)12月1日 京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併する。

1927年(昭和2年) 6月1日 玉南が開業した区間を1,372mm軌間に変更し、軌道法適用とする。

12月17日 下仙川(現・仙川) - 調布間を甲州街道北側から南側の現在線に付け替え。

1928年(昭和3年)5月22日 新宿駅 - 東八王子駅間の直通運転を開始。

1931年(昭和6年)3月20日 御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通。

1938年(昭和13年)6月1日 御陵線と競合していた武蔵中央電気鉄道を買収、八王子線(横山車庫前駅 - 高尾橋駅間、後に高尾線と改称)となる。

1939年(昭和14年) 6月30日 高尾線を休止。

12月1日 高尾線を廃止。

1944年(昭和19年)5月31日 陸上交通事業調整法により、東京急行電鉄に統合され、いわゆる大東急の一員となる。


帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)

一方、井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の帝都電鉄株式会社が同社の渋谷線として1933年(昭和8年)8月1日に渋谷駅 - 井の頭公園駅間を開業させ、1934年(昭和9年)4月1日に吉祥寺駅まで全通させたものである。

元々、同社は1928年(昭和3年)9月24日に設立された鬼怒川水力電気系列の東京山手急行電鉄株式会社がそもそもの母体である。1930年(昭和5年)11月15日に東京郊外鉄道株式会社と社名を変更して、1931年(昭和6年)2月1日には1927年(昭和2年)7月に設立されていた渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、同社が計画中の渋谷線を継承した。そして、1933年(昭和8年)1月19日に帝都電鉄株式会社に改称した。理由は1932年(昭和7年)10月1日に沿線町村のほとんどが東京市に合併されたことにより、「郊外」の社名がふさわしくなくなったからとされている。

また、同社は1935年(昭和10年)には乗合自動車事業も開始したが、1940年(昭和15年)5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道株式会社に合併され、小田原急行鉄道帝都線となる。さらに1941年(昭和16年)3月1日には親会社である鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し、小田急電鉄株式会社に改称、小田急電鉄帝都線となる。そして1942年(昭和17年)5月1日には陸上交通事業調整法の趣旨に則り、小田急電鉄株式会社は京浜電気鉄道株式会社と共に東京横浜電鉄株式会社に合併し、東京急行電鉄株式会社(いわゆる大東急)の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線に改称される。

なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸の電力部門を電力国家管理政策に基づき国家へ取り上げられた上、中華民国の山東半島への鉱業進出が裏目に出て経営が悪化し、先行きが暗かった。加えて、経営者である利光鶴松が高齢を理由に、小田急の経営一切を自分が見込んだ東京横浜電鉄の五島慶太に託して引退。事実上同社に身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄の場合、京王電気軌道と異なり、あくまで自主的に統合に加わったのであった。


年表

1927年(昭和2年)7月28日 渋谷急行電気鉄道株式会社が設立される。

1928年(昭和3年)9月24日 東京山手急行電鉄株式会社が資本金3400万円、利光鶴松代表の下で設立される。

1930年(昭和5年)11月26日 東京山手急行電鉄株式会社が東京郊外鉄道株式会社に改称する。

1931年(昭和6年) 2月1日 東京郊外鉄道株式会社が渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、資本金3800万円になる。

7月 東京郊外鉄道渋谷線(渋谷駅 - 吉祥寺駅間)の工事が着工する。

1933年(昭和8年) 1月19日 東京郊外鉄道株式会社が帝都電鉄株式会社に改称する。

8月1日 帝都電鉄渋谷線として渋谷駅 - 井の頭公園駅間開業。

1934年(昭和9年)4月1日 井の頭公園駅 - 吉祥寺駅間が開業した。

1935年(昭和10年)4月8日 東横乗合より乗合自動車路線を譲受(大宮八幡 - 久我山駅 - 牟礼 - 武蔵小金井駅間)。

1940年(昭和15年)5月1日 帝都電鉄株式会社が同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道に合併される。

1941年(昭和16年)3月1日 配電統制令に基づき主業を失った鬼怒川水力電気は小田原急行鉄道を合併、同社は小田急電鉄と改称する。

1942年(昭和17年)5月1日 京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄(いわゆる大東急)となる。


大東急時代

第二次世界大戦中、京王線も井の頭線も、大東急の路線となった。

京王線は、東京急行電鉄京王営業局(→京王管理部→京王支社)によって、井の頭線は東京急行電鉄渋谷営業局(→渋谷管理部→渋谷支社)によって、それぞれ営業が行われた。しかし、戦局が悪化する中、京王線・井の頭線共空襲などで様々な被害を受けた。とりわけ井の頭線は永福町車庫が被災し壊滅に近い状態となった。また、京王御陵線は「不要不急線」と判断され、営業休止(事実上の廃線)に追い込まれた。


年表

1942年(昭和17年)5月1日 小田急電鉄株式会社が京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄株式会社が成立。小田急帝都線は東急井の頭線となる。

1944年(昭和19年)5月31日 京王電気軌道株式会社が東京急行電鉄株式会社に合併される。

1945年(昭和20年) 1月21日 東急御陵線(北野駅 - 多摩御陵前駅間)を休止。

5月頃 代田連絡線(代田二丁目(現・新代田) - 東急小田原線(現・小田急小田原線)世田ヶ谷中原(当時被災休止中、現・世田谷代田))使用開始。

7月24日 京王線新宿起点を京王新宿駅から現在地(新宿西口)に移転。省線新宿駅前駅、新町駅、西参道駅、幡代駅廃止。

8月15日 京王線全線を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく鉄道に変更を申請。

10月1日 京王線全線が地方鉄道法に基づく鉄道となる。

1947年(昭和22年)12月26日 東京急行電鉄株主総会が実施され、東京急行電鉄株式会社から京王帝都電鉄株式会社・小田急電鉄株式会社・京浜急行電鉄株式会社・株式会社東横百貨店が分離することが決定する。

京王電鉄 接近メロディ集(2017/10/02~)


京王電鉄の企業紹介動画が、ユーチューブ上では一つも見つかりませんでした。

私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html  )などに制作依頼すれば、素敵なものが出来ると思うのですが。


投資判断ですけれども、時価総額は売上高の1.5倍で、営業利益率は9%ですね。

チャートはボックス相場の高い位置で、信用場率は1割を割れています。

迷うところですが、財務良好が決め手になりました。

分散投資先の一つとして、私の投資判断は買いです。



株式投資家の暮らしと夢

初めまして、kurasitoyumeと申します。 wiki等の情報を参考に、企業情報を確認して、その銘柄の投資判断くだす記事をメインに書いてます。 サブ記事でポケモンGOレポートを書いています。

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