9009  京成電鉄(株)

この銘柄は前回は11/27に2,642円(翌営業日11/28終値)で見送りの投資判断をしていますが、その後株価は突如ぐいぐい上昇し、しかしまた今度は急激に下げて、現在はあまり変わらない位置ですね。

http://ameblo.jp/kurasitoyume/entry-12223243237.html 

現物株の長期投資ブログですので、この程度の株価の変動は誤差の範囲ととらえて頂けたらと思います。


前回は会社の概要を調べましたので、今回はその歴史について、今回は会社設立から終戦までですが、調べていこうと思います。


会社設立から成田延伸まで

日本の鉄道設立を遡ると有名な神社・仏閣の存在が設立動機となったケースが多いです。

成田山新勝寺も江戸時代から多くの参拝客を集めていたが、明治時代になると1897年に成田鉄道(初代)が開業し、多くの参拝者が利用しました。

その後、1900年代に入ると全国的に電気鉄道ブームが起きる中で、東京と成田を直結する電気鉄道が3者競願で計画されたが、後に3者は合同し1903年に東京府東京市本所区押上 - 千葉県印旛郡成田町間を軌道条例によって出願し、1907年5月28日に押上 - 成田・佐倉町宮小路 - 佐倉停車場について特許を得て、日露戦争後の経済不況のなかで株式募集は難航したが、1909年6月30日に京成電気軌道株式会社を設立しました。

1911年11月9日に第一期工事として押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・京成高砂) - 柴又間を着工し、翌1912年11月3日に開業し(なお、この時市川へは渡船で連絡していた)、また、これに先立つ同年4月27日には帝釈人車軌道(柴又 - 金町間)を買収しました。

実は京成最初の営業路線は人車軌道でした。

1913年10月21日に改築が完成した柴又 - 金町間を開業させ、以後1914年9月1日に江戸川 - 市川新田(現・市川真間)間、1915年11月3日に市川新田 - 中山間、1916年12月28日には中山 - 船橋間と延伸を繰り返しています。

船橋から先はまず県都・千葉を目指すこととし、1921年7月17日船橋 - 千葉間が開業しました。

当時の京成千葉駅(現・千葉中央駅)は現在の千葉中央公園の位置にあって、千葉市の中心部には省線の千葉駅よりも近く、1935年(昭和10年)7月1日に省線が電化されるまでは利用客数で圧倒的優位に立っていました。

1925年10月には本来の目的地・成田への延伸に着手しました。

翌1926年12月9日に津田沼 - 酒々井間、24日には酒々井 - 成田花咲町(仮駅)間を開業し、ここに東京と成田までが結ばれることとなりました。

なお、成田の駅の位置を巡っては新勝寺門前により近いところへの設置を画策して成田電気軌道(旧・成宗電気軌道)を買収(1925年)してその線路を接続する案もあったが、成田山門前の商店街の猛反発に折れ、1930年(昭和5年)4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置しました。


都心延伸から終戦まで

東京側のターミナルとなっていた押上は、京成開業後発展していたものの、都心へは市電の乗り換えを必要とし、押上 - 浅草間の路線延長を計画しました。

しかし京成に隣接する東武鉄道が隅田川を越えて浅草花川戸地区への路線延長を計画すると京成側でも、これを計画して東武との競願になりました。

そして、1928年(昭和3年)9月に京成は自社に有利になるよう東京市議に働きかけ、不正資金供与発展した京成電車疑獄事件が発覚して、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれました。

その後、日暮里 - 筑波に鉄道敷設免許を有していた筑波高速度電気鉄道を東武鉄道との競合の末に1930年(昭和5年)10月21日に吸収合併、その免許を利用する形で翌1931年12月19日に青砥 - 日暮里間、1933年(昭和8年)12月10日に日暮里 - 上野(当時・上野公園)間を開業し、念願であった都心延伸を果たしました。

また日暮里 - 上野間は上野公園下の地下線となったが、これは東京の郊外電車としては初のケースです。

この頃、1928年(昭和3年)4月7日には白鬚線(向島 - 白鬚間)を開業しました。

白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道(現在の都電荒川線)と結ぶ計画もあったが、上野延伸と引き換えの形で1936年(昭和1年)2月28日に廃止されました。

また、1927年(昭和2年)8月21日には谷津支線(京成花輪 - 谷津遊園地間)を開業したが、後に谷津海岸駅(現・谷津駅)からの道路が開通したために1931年10月27日に休止、1934年(昭和9年)6月22日に廃止されています。

創業時から兼業として電灯電力供給事業、その後バス事業や土地分譲、谷津遊園の開設などが行われていたが、昭和恐慌での経営不振の打開策として、東京電燈から千葉県及び茨城県の一部の電灯電力供給事業を譲受すべく交渉しました。

1934年(昭和9年)11月9日に当事者同士での契約調印がなされたが、監督官庁の逓信省が認可しなかったため不成立に終わりました。

しかし、資金・人材の手当は済んでいたこともあり、ここから積極的な兼業展開を展開することとなります。

1936年(昭和11年)には幕張に畜産加工工場を設立して「京成ハム」「京成ソーセージ」などの商品名で精肉・加工肉製造販売や「京成シミトール」(湿布薬)などといった薬品を直営で販売(大手私鉄本体が食品業・薬品事業を行ったのはこの社だけであると思われる)しました。

1938年(昭和13年)には帝都タクシーを設立、梅鉢車輛(後の帝國車輛工業)を系列化しています。

1943年(昭和18年)にはセレベス開発鉄道を設立しました。

これ以外にも、百貨店経営や株式会社大日本東京野球倶楽部(東京読売巨人軍の前身)への出資(筆頭株主であった)などが行われていました。

その後、太平洋戦争が近付くに連れ、1942年(昭和17年)には電灯電力供給事業を関東配電株式会社に譲渡し、また陸上交通事業調整法の下で常磐線以南のエリアの統合中核企業とされたが、系列下にあった総武鉄道(2代)は東武鉄道に、城東電気軌道は東京市電に統合されたためバス会社の統合のみが行われました。

この時総武鉄道(2代)を喪失したことが戦後新京成電鉄を設立する動機になったといわれています。

併せて千葉県下の成田鉄道(2代)・小湊鐵道・九十九里鉄道が京成の資本系列下に入り、戦後千葉県下全域に事業を拡大する基盤を得ることとなりました。

戦時中特筆することとしては、日暮里 - 上野公園間が当時の運輸省の接収を受けたことでしょう。

戦争末期空襲が激しくなってきたことに伴い、運輸省の疎開先として上野公園下の地下トンネルに目を付けられたのだった。しかしほとんど機能しないまま、まもなく終戦を迎えることとなります。

2016年9月10日 土曜日 16:08 京成上野駅

今回は、なかなか面白い記事になりましたね。

一枚のスナップ写真の中にある歴史が、偶然にも見事に描き出された記事になりました。


そして投資判断ですけれども、残念ながら、ポケモンGOでは上野公園不忍池からはほとんど出なくなってしまいました。

ただ、外国人観光客は今後も増やす予定のようですので、成田空港の利用は減ることはなさそうです。

利益の方は底堅く増加傾向にあるようですし、チャートも何度か底を試して弾き返されているようです。

私の投資判断は、今回は買いです。


株式投資家の暮らしと夢

初めまして、kurasitoyumeと申します。 wiki等の情報を参考に、企業情報を確認して、その銘柄の投資判断くだす記事をメインに書いてます。 サブ記事でポケモンGOレポートを書いています。

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