信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・11(龍造寺家の台頭)
最上家は北方の南部家との戦いが迫ってきているのを感じていたが、国を富ます速度は落とさなかった。
米を売却して資金を作り、国力増強をむしろ急いだ。
天文23年8月、一条家を撃退し、再び朝倉城を包囲した長宗我部元親だったが、本国に三好家が侵攻してくることは想定外だった。
本山城を攻撃していた福留親政隊は、本国へ撤退した。
大友家と停戦した竜造寺家は、有馬家の最後の居城・日之江城へ、進軍を開始した。
ちなみに龍造寺家の石高は悪25万石で、我が最上家も同じくらいである。
天文23年8月、長宗我部元親は朝倉城を攻略したが、本山家はすぐに奪還に動いた。
そしてこの情報を三好家はつかんでいた。
最上家による戸沢家への挑発は3度行われたが、いずれも戸沢家は城から出てくることはなかった。
最上家の氏家守棟が「攻城」を習得した。
これより、守棟は主力部隊の参謀に抜擢されることになる。
天文23年9月、三好家随一の猛将・三好一存が、本山家の本山城に進軍を始めた。
天文23年9月、島原半島の日之江城の攻防は激しさを増していた。
守勢側の有馬家は島津家に援軍を求め、対抗して攻勢側の龍造寺家は大内家に援軍を求めた。
攻守ともに5000人ほどの兵を繰り出した、大会戦となった。
北陸地方における本願寺家と畠山家の戦いは本願寺家が優勢になり、天文23年9月には高岡城が本願寺家に降伏した。
翌10月には、畠山家の本城・七尾城に向けて、一向衆の門徒が襲い掛かった。
中国地方では、三村家が度々尼子家に侵攻した。
これにより尼子家は疲弊し、毛利家の台頭を許した。
天文23年10月、本山家は三好家に滅ぼされた。
強大な三好家が東土佐国の本山城を獲得したことは、東土佐国で力をつけ始めていた長宗我部家にとっては目の上のたん瘤となった。
関東地方で北条家に対抗できる大名は佐竹家だけになっていたが、その勢力差は大きかったが、佐竹家は北条家に屈する気配はなかった。
天文23年10月、佐竹家は、北条家と接する小田家を攻め、翌11月には小田城を攻略、小田家は滅亡した。
天文23年10月、龍造寺・大内連合軍は、救援に来た島津家をも退けて、日之江城を攻略し、有馬家は滅亡した。
日之江城の戦いではいいように龍造寺家に使われた大内家であったが、大国・大内家はさすがだった。
大内家の重臣・陶晴賢が、龍造寺家の領土を抜けて、龍造寺家の背後となる、九州北西部の豪族・松浦家へ攻め込んだのだ。
天文23年11月。
七尾城での一向宗門徒の攻勢は、守勢側の畠山家の勝利に終わった。
尼子家は経久の代に急速に領土を拡大したが、その子晴久の代になってからは、臣従していた三村家が独立し、その隙をついて毛利家が台頭した。
また尼子家は東進政策をとっていたが、その向かう先の浦上家で、宇喜多直家という武将が頭角を現してきてからは、領土拡大は止められた。
宇喜多直家は外交でも活躍し、尼子家が侵攻してきた際には、赤松家に救援してもらえるよう手配した。
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