信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・12(太原雪斎の死)
天文23年12月、中国地方の毛利家は動いた。
三村家の備中松山城に約1万の兵で、備中高松城には浦上家と共同で、こちらも5千近い兵で攻め込んだ。
天文23年12月、大内家は平戸城を攻略し、松浦家は滅亡した。
この平戸城を大内家が手に入れたことで、その備えから、龍造寺家は兵力を東方に全軍展開することが出来なくなり、戦力が分散されることになった。
天文23年12月。
中部地方の尾張国では、織田家内の争いが終焉を迎えようとしていた。
織田信長率いる総勢6000が、犬山城の清洲織田家の兵約1500に襲いかかっていた。
天文24年1月。
大友家は九州南部への本格的な侵攻を開始した。
取り込んだ相良家の相良晴広を先陣に、伊東家の高城へ、総勢5000の兵で攻め込んだ。
迎え撃つ伊東家には2千も兵はおらず、国力の差は歴然だった。
翌月には高城を攻略し、3月には本城の佐土原城を包囲した。
天文24年1月、毛利家は備中松山城を攻略。
翌月には備中高松城も攻略し、三村家は滅亡した。
そして毛利家はこの時、中国地方最大の戦国大名として名乗りを上げた。
天文24年1月、織田信長隊は犬山城を攻略し、清州織田家は滅亡した。
ここに織田家は家中統一されたのである。
斯波家を滅ぼした南部家は、さらに南下して葛西家を滅亡させることはたやすいことのように思われた。
ただ葛西家は斯波家とは違い、最上領と接していたため、最上家が救援に行くことも可能だった。
そして最上家は、葛西家と共同戦線を張るために、外交交渉を開始した。
葛西家と外交交渉を開始した最上家であったが、隣国の伊達家にとっては面白くない話だった。
晴宗は即座に、亘理元宗らを葛西家の寺池城攻略に向かわせ、翌月に攻略した。
また降伏した相馬盛胤に兵を与え、岩城家の飯野平城へ攻め込んだ。
天文24年4月、駿河の国。
太原雪斎-------
もともとは京で禅僧をしていたが、幼い義元の教育係として駿河に招かれた。
以来、陰日向に雪斎は義元を支え続けた。
二人は力を合わせ二人で今川家を戦国有数の大大名へと押し上げてきた。
今川義元:ふふ・・・・・・我が師、雪斎よ。
:まだ功徳が足りぬのではないか?
:ここで死んでは地獄に転生することになる。
:養生するがよかろう。
太原雪斎:義元様・・・・・・
:拙僧も仏に使える身。己の命数は己で読めまする。
今川義元:・・・・・・
太原雪斎:ですが、悔いはございませぬ。
:義元様の天下への道・・・・・・
:その支度は整っておりますゆえ。
今川義元:甲相駿三国の盟、か・・・・・・
:このようなものを弟子に残すとは、師も随分と弟子に甘くなったものよ。
太原雪斎:ささやかなお礼にございます。
:義元様と共に歩んだ半生・・・・・・
:とても楽しゅうございました。
:我が武略・・・・・・
:存分に振るえたるは義元様あってのこと。
:義元様にあえて果報にございました。
:今生がこれほど果報でしたゆえ、次に我が往く先・・・・・・
:必ずや地獄にございましょう。
今川義元:ならば・・・・・・
:地獄で先に待っておるがよい、我が師よ。
:これよりこの義元が天下を取る
:それまでには、多くの業を背負うであろうからな
太原雪斎:では地獄の鬼どもとの戦支度は、拙僧が整えておきましょう。
:義元様・・・・・・
:必ずや、天下を・・・・・・
今川義元:ああ、わかっておる。師の策、決して無駄にはせぬ。
:だから今は、眠るがよかろう
今川家は、義元と雪斎という、両輪によって支えられていた。
義元は、今ここに雪斎を失い、今川のすべてをその双肩に担うことになる。
それは僅かではあるが、今川の未来に暗い影を落とすものとなった。
人は常に死んだ。
飛騨の国でもまた。
三木良頼が三木直頼の跡を継ぎ、新たに大名になった。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「静岡県」を検索してみましたら、28,317件の画像がヒットしましたよ。
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