信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・21(長尾家VS畠山家)

弘治2年9月、南部晴政は再び総勢兵2100で、独鈷城に侵攻した。

天童頼長隊の兵力は800まで減り、満身創痍の状態だったために、本国へ帰還する予定だったが、檜山城から安東愛季が1100の兵で救援に出陣したことを聞き、独鈷城へとって返すことを決意。

安東愛季と挟撃して、南部晴政を敗走させた。

天童頼長隊はこの戦いで本国へ帰還する気力すら失い、一旦独鈷城へ入城して休息した。

しかし、この戦いの見事な用兵と勝利を驚愕の思いで見つめる者たちがいた。


弘治2年9月、織田家・松平家連合軍と六角家・斉藤家連合軍の戦いは、織田家・松平家側の勝利に終わり、大垣城は松平家が攻略した。

また織田家は柴田勝家や滝川一益が、伊勢湾を渡って六角家の長野城へ侵攻し、ここでは救援に来た本願寺家の部隊と激突した。


また四国での三好家と河野家の戦いは三好家が勝利し、鷺ノ森城は三好家のものとなった。



天童頼長隊に捕縛されていた葛西家の捕虜は、最上家の強さを再度目の前で見ることになり、独鈷城にて最上家に臣従を誓った。

その中にいた九戸政実や柏山明吉は、有能な武官として名が知れていたので、最上義守はとても喜んだ。

そして九戸政実に対しては、さらに厚遇し、陸中の本城である高水寺城の城主に抜擢した。



弘治2年9月、織田家は六角家・本願寺連合軍を破り、長野城を攻略した。

そして10月、柴田勝家隊らは、今度は長野家の亀山城へ軍を進めた。



弘治2年11月。

織田家は長野家・本願寺家連合軍と激突した。

織田家総勢兵3200に対し、長野家・本願寺家連合軍は兵1000程度しか集まらなかった。

この月、亀山城は落城し、長野家は滅亡した。



弘治2年11月。

南部晴政は再び兵3700にて独鈷城に侵攻してきた。

南部家は山形城の兵力が回復していなかったので、天童頼長は真室城から兵1300を率いて出陣した。


弘治2年12月。

独鈷城救援に先発していた安東愛季隊兵1300は、独鈷城を包囲していた南部晴政隊総勢2700と激突した。


弘治2年12月。

北陸地方では畠山家が本願寺家の尾山御坊に進軍した。

そしてその隙をついて、長尾家が畠山家の本拠地・七尾城を強襲した。


弘治2年12月。

独鈷城救援に、横手城の小野寺輝道隊兵1000が合流した。

南部家は後詰に九戸信仲隊兵800も出陣させたが、最上家の後詰は鶴ケ岡城から鮭延貞綱の兵1000や天童頼長隊の到着も間近となっていて、勝敗は見えてきていた。



弘治3年1月。

真室城から駆け付けた天童頼長隊兵1300も着陣し、形勢は確定的となった。

更に後方からも最上家の後詰兵1200が向かってきており、この戦いで南部家は崩壊の危険すら出てきていた。


弘治3年1月。

七尾城に押し寄せる軍勢は、長尾家に従属する椎名家の部隊も含めると、総勢1万にも達しようとしていた。

七尾城は北陸有数の堅城として名高かったので、長尾景虎は近隣のほぼ全軍でしていたのだった。


弘治3年1月。

伊賀上野城周辺で、北畠家と六角家・浅井家連合軍が激突した。


弘治3年2月。

尼子家は総勢5000近い軍勢で浦上家の津山城に攻め込んだ。

浦上家は毛利家に救援を依頼した。


ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html  )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は

「七尾城」を検索してみましたら、 8 件の画像がヒットしましたよ。

http://amanaimages.com/keyword/result.aspx?Page=Search&KeyWord=%8e%b5%94%f6%8f%e9&ImageID= 

株式投資家の暮らしと夢

初めまして、kurasitoyumeと申します。 wiki等の情報を参考に、企業情報を確認して、その銘柄の投資判断くだす記事をメインに書いてます。 サブ記事でポケモンGOレポートを書いています。

0コメント

  • 1000 / 1000