信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・26(大友家VS大内家・龍造寺家連合軍)
我が最上家は、南部・戸沢連合軍との戦がいよいよ佳境に入ってきていた。
弘治4年1月の評定。
前線で戦う武将より、続々と報告が入っていた。
普段はぼんやりとした最上義守だが、内心は山形城から出陣していた天童頼長隊が兵2900とほぼ全軍での出撃だったので、何らかの成果を得なければならないという重圧があった。
南部家の反撃が始まっていたので、その救援途上にある角館城を、総攻撃で一気に落とすべきか散々悩んだが、最前線で南部家と戦う武将らを信じ、兵の損失を抑える兵糧攻めを頼長に指示した。
弘治4年1月、南部晴政隊は最上家の挟撃を受けながらも、独鈷城へ迂回して攻略を目指した。
救援に来る最上家本体との決戦も見据えた動きだった。
弘治4年1月、最上家の天童頼長隊は角館城を攻略し、戸沢家は滅亡した。
弘治4年1月、最上家の前線武将は総出で城から出撃し、実質的に本体到着前に南部家を撃退した。
弘治4年2月、氏家定直は山形城に出丸に馬出を作ることにした。
最上家は領内が金山や銀山に恵まれたために、比較的財政的には裕福だったことも、この山形城を東北一の巨城に出来た要因の一つだった。
弘治4年2月、最上家は当主の義守自らも、石川城に向けて出陣することにした。
そしてそれは前線の兵士強く鼓舞するものだったが、義守の考えは実はそれとはまったく正反対のものだった。
義守は南部家討伐後は、蝦夷の蠣崎家を討伐し、蝦夷地へ移住する狙いがあったのだ。
幼き頃より死の恐怖におびえ続けた義守は、強大な伊達家と接する山形城に居住することが、何よりも苦痛だったのだ。
弘治4年2月、蝦夷地の蠣崎家が再び津軽半島に上陸し、南部家の陸奥福島城は長門広益隊に包囲された。
城まで包囲されたことはかつてなく、南部家の弱体化は明らかだった。
この月のうちに城は陥落した。
弘治4年2月、中部地方では、武田家の西進が休む間もなく行われていた。
斉藤家の弱体化により、織田家・松平家の連合軍が実質的に美濃国を支配していたが、武田家の圧力はそれを上回るものになろうとしていた。
弘治4年2月、日向国で島津家に敗れた大友家だったが、本国のある北九州では九州統一に向けて、着々と領土を広げていた。
小倉城には大友宗麟率いる8000の兵で攻め込み、鷹取山城にも5000の兵を向かわせていた。
一方の大内家も総勢では5000もの兵を出陣させ、最後の抵抗を見せていたが、大内家が九州から追い出されるのは、もはや時間の問題だった。
大内家の最後の望みは、龍造寺家の大友家への攻撃だった。
九州のもう一つの大国である龍造寺家は、大内家とは領土を接することはなくなり、友好関係を築きつつあった。
当主・隆信自ら総勢8000もの兵を率いて、大友軍の留守をついて攻勢をかけた。
これにはさすがに大友宗麟も危惧し、名将・立花道雪ら約5000の軍勢を向かわせた。
ところで、私のブログの昨年の殿堂入り銘柄「2402 アマナ」( http://ameblo.jp/kurasitoyume/theme-10100314026.html )にアマナイメージズという子会社があって、ここがストックフォトを扱っていますので、そのサイトで今回は
「大友宗麟」を検索してみましたら、 7件の画像がヒットしましたよ。
http://amanaimages.com/keyword/result.aspx?Page=Search&KeyWord=%91%e5%97F%8f%40%97%d9&ImageID=
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