7270 (株)SUBARU
前回は1/25に4,730円で、おすすめ銘柄の買い判断をしていますね。
http://ameblo.jp/kurasitoyume/entry-12241233393.html
珍しく大きく外してしまいました。
株価が上がって空売りが増えたので、ただの買いから、おすすめ銘柄に格上げするのは、かなり悩んだのです。
一見すると、典型的なはめ込みパターンだと。
しかし私はその判断には後悔していません。
ここは売るべきタイミングではないし、むしろファンダメンタルからみれば、絶好の買い増しのチャンスだと判断します。
さて、今回はスバルの歴史を、富士重工業の誕生まで、さらに詳しく見ていきましょう。
中島飛行機
中島飛行機は、主として太平洋戦争時までの陸海軍の需要に応え、軍用機および航空用エンジン開発に取り組んだメーカーです。
三菱重工業、川崎航空機と共に大手航空機メーカーとして、日本最大規模の存在でした。
特に技師長小山悌を設計主務者に開発され、陸軍(陸軍航空部隊)の歴代主力戦闘機となった九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」など、多数の著名な軍用機を送り出しました。
エンジンメーカーとしては、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機(零戦)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や「紫電改」に搭載された「誉(ハ45)」などを開発しています。
企業解体と非軍需産業への転進
日本の敗戦とともに、GHQより航空機の研究・製造の一切が禁止され、中島飛行機は新たに富士産業と改称されました。
戦時中、最先端の航空機開発に取り組んだ優秀な技術者たちの生活は、各工場毎に、自転車、リヤカー、自動車修理、果ては鍋や釜、衣類箱、乳母車などを作って糊口を凌ぐ日々へと一変しました。
このような状況の中、太田と三鷹工場の技術者たちは、当時進駐軍の兵士たちが移動に利用していたアメリカ製の簡易なスクーター「パウエル」に着目します。
軽便な移動手段としての販路を見込めると考えられたことからスクーターの国産化が計画され、早速、敗戦後も残っていた陸上爆撃機「銀河」の尾輪をタイヤに利用して試作、1947年(昭和22年)に「ラビットスクーター」として発売しました。
「ラビット」は運転が簡易で扱いやすかったことから、戦後日本の混乱期において市場の人気を博し、メーカーの屋台骨を支える重要な商品となりました。
「ラビット」シリーズのスクーターは、モデルチェンジを繰り返しつつ富士重工業成立後の1968年(昭和43年)まで生産されました。
また航空機製造で培った板金・木工技術を活用し、1946年(昭和21年)からバスボディ架装にも進出、特に従前の「ボンネットバス」より床面積を大きく取れるキャブオーバー型ボディの架装で、輸送力不足に悩むバス会社から人気を得ました。
さらに1949年(昭和24年)にはアメリカ製リアエンジンバスにならい、得意の航空機製造技術を生かした、日本初のモノコックボディ・リアエンジンバス「ふじ号」が完成しました。
フロントエンジン型キャブオーバーバスよりさらにスペース効率に優れることから成功を収め、以降、日本のバスボディ・シャーシの主流は続々とリアエンジンへ移行していきます。
このようにして非軍需産業へ転進した富士産業であったが、1950年(昭和25年)8月、当時の政策によって財閥解体の対象となり、工場毎に15社以上に分割されてしまいました。
富士重工業成立
1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争は、戦後不況にあえぐ日本に「朝鮮特需」をもたらしただけでなく、GHQの日本の占領政策を一変させました。
1952年(昭和27年)4月、サンフランシスコ講和条約が発効すると、旧・財閥から民間賠償用としてGHQに接収されていた土地・建物の所有者に返還がはじまり、富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)を中心とした旧・中島飛行機グループ内での再合同の動きがにわかに活発化、1952年(昭和27年)12月、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)を加えた4社が合併同意文書に調印しました。
同じ頃、1953年(昭和28年)の保安庁(現:防衛省)予算に練習機調達予算が計上され、航空機生産再開に向けて、ビーチ・エアクラフトT-34 メンターの製造ライセンス獲得に国内航空機メーカー各社は一斉に動き出しました。
当時、再合同の途上にあった旧・中島飛行機グループも再合同の動きを加速させ、1953年(昭和28年)5月には、鉄道車両メーカーとなっていた宇都宮車輛(宇都宮工場)が新たに再合同に参加することが決まり、1953年(昭和28年)7月15日、5社出資による航空機生産を事業目的とする新会社富士重工業株式会社が発足しました。
1954年(昭和29年)9月、6社が合併契約書に調印し、1955年(昭和30年)4月1日、富士重工業は、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収し、正式に富士重工業株式会社としてスタートしました(当時の資本金:8億3,050万円、従業員:5,643名)。
ロゴは「富士重工」で、「重」の1画目がない形になっており、長らく使用された。
旧・中島飛行機の発動機開発の拠点で、荻窪工場と浜松工場を引き継いだ富士精密工業は、中島飛行機再合同の動きが本格化した1952年(昭和27年)には、事実上、すでにタイヤメーカーのブリヂストンの資本下に入っており、再合同には参加しませんでした。
また、この時再合同に加わらなかった、富士機械工業など3社は、のちに富士重工業の関連会社として加わっています。
富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社としました。
この存続会社の東邦化学株式会社は1965年(昭和40年)に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年(昭和40年)に一旦消滅しています。
これは株式額面金額変更が目的の事務的なものです。
1966年(昭和41年)、それまで丸の内の内外ビルディングに所在していた本社機能が新宿駅西口に自社建設した「新宿スバルビル」に移転しました。
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投資判断ですが、時価総額は売上高より低いですが、営業利益率は10%以上あります。
信用買いが猛烈な勢いで増えていますので、それを殺すためにチャートは右肩下がりです。
私の投資判断は買いです。
信用買いが多いために、まだまだ下がるかも知れませんが、現物組は無限ナンピン体制を整えたいところです。
もちろん売り手は大株主絡みになるでしょう。
悪材料を用意しているかも知れません。
苦しい戦いになると思います。
しかし私はSUBARUを信じて買うのみです。
引き続きおすすめ銘柄です!
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