信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・27(崩壊の進む大内家と元禄時代の始まり)
北九州における戦乱は大規模に、そして激しさを増していた。
弘治4年3月、鷹取山城での戦いは、大友家が龍造寺家からの侵攻への備えに兵を引き返したこともあり、大内家が守り切った。
弘治4年3月、龍造寺家の侵攻に対し、大友家の立花道雪の奮戦は特筆ものだった。
ところでこの頃、京の都では正親町天皇が正式に即位した。
困窮が続いた朝廷であったが、この頃から地方の大名は淘汰され始め、力のある大名は朝廷の権威を利用しようと、献上金を送るようになっていた。
毛利元就などは即位料・御服費用として総額2,059貫400文を進献した。
正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。
そして、正親町天皇それらの資金を使って、即位の礼を行い、元号を弘治から永禄と改めた。
弘治4年3月、最上家は守りの堅い南部家の本城・石川城を避け、浪岡御所に軍勢を向けた。
西陸奥の支城一つでも取ることで、国人衆の南部家へ支持を弱めようという考えだった。
元禄元年4月、山形城の改修はさらに進み、石垣の堀まで作られるようになっていた。
東北地方では最強の城だと往来する商人たちはささやきあった。
この話は伊達家にも伝わり、当主・晴宗はかつて支配した最上家に対し、脅威を感じ始めるようになっていた。
元禄元年4月、浪岡御所の重要性は、南部家の重臣・石川高信も良く理解していた。
三戸城からその危機に全力で駆け向かった。
しかし到着前のに浪岡御所は陥落。
石川城との中継地点を失った石川高信隊は、石川城へと道を変えた。
元禄元年4月、武田家の西進はなかなかはかどらなかった。
当主・松平元康は若年ながら、それを補佐する石川数正らが戦上手だったからだ。
元禄元年4月、大友家の勢福寺城への龍造寺家の攻勢は、立花道雪らの活躍で失敗に終わった。
元禄元年4月、大友宗麟はついに大内家の小倉城を攻略した。
これにより大内家の九州と中国地方の領土は分断された。
永禄元年5月、石川城付近に最上家の軍勢が現れたという報告を受けた石川高信隊は、全速力で城に向かい、そして天童頼貞隊らと対峙した。
その時であった。
側面より天童頼長隊が石川高信隊を強襲。
戦いは最上家の勝利となり、石川城は再び包囲された。
元禄元年5月、小倉城を落とされ、中国地方からの救援が分断された大内家には、もはや大友家と戦う兵力は残されていなかった。
鷹取山城は大友家に降伏した。
また大友家は龍造寺家の高城城へも侵攻し、攻略して、戦線を拡大した。
元禄元年6月、尼子家は度々浦上家の津山城へ侵攻したが、毛利家の救援がそれを阻んだ。
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