信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・31(毛利家の月山富田城攻略と武田晴信の改名(信玄)
永禄元年12月、最上家の天童頼貞隊は蠣崎家の長門広益隊と激突した。
これにより、両家は開戦した。
蝦夷地を治める蠣崎家には文武ともに優れた武将がおり、本土の大名から侵攻を受けることはほとんどなかった。
永禄2年1月の評定。
最上家と蠣崎家の戦は、この時点ではほぼ互角との報告がなされた。
またこの月に、延沢満延という猛将を最上家は登用に成功した。
また山形城では、商業区画に替銭屋を作るよう筆頭家老の氏家定直は指示をした。
永禄2年1月、郡上八幡城での武田家と松平家の戦いは、武田家が勝利した。
永禄2年1月、織田信長は本願寺家の長島城に2万近い兵で攻め込んだ。
これには本願寺家も泡を食い、朝倉家に救援を求めたが、朝倉家も出せる兵力は3千にも満たなかった。
永禄2年1月、山名家の一色家の弓木城への侵攻は失敗した。
この戦いは、一色家の勝利に終わった。
永禄2年1月、月山富田城を取り囲む軍勢に、山吹城を攻略した吉川元春隊が加わっていた。
その配下には、山吹城の城主だった重臣の尼子誠久もいた。
もはや尼子家は一門の結束もなくなり、滅亡は免れない状態になっていた。
そしてこの月のうちに、城は陥落した。
永禄2年1月、陸奥福島城近辺での最上家と蠣崎家の戦いは、最上家が勝利し、小野寺輝道隊はその勢いで城を強襲した。
同月、城兵は降伏し、長門広益も最上家に降った。
甲斐の国。
勢力拡大とは裏腹に、武田家の内情は切迫していた。
戦費を賄うため、豊かとは言い難い甲斐の領民に、重い負担がかかっていたのである。
領民たちの不満、不安は、巡り巡って国人や家臣たちの不満、不安へとつながっていった。
そのような中で、父信虎と同じように、晴信を追放しようという勢力が領内に育ちつつあるのを晴信は感じ取っていた。
武田晴信:こうなれば先手を打つとしよう。
:手をこまねいて、父のように甲斐を追われることになるわけにはいかぬ。
その日のうちに晴信は出家し、「信玄」と号した。
領内の安定に、仏教勢力の手を借りるための出家であった。
武田信玄:・・・天下を得るためであれば、
:鬼にでも仏にでもなろうではないか。
こうして、領内の支配体制を強固にした信玄であったが、謀反の火種を完全に消しきれたかというと、そういうわけでもなかった。
最上家は北方の城を次々と攻略し、ついに本土最北端の陸奥福島城まで手に入れていたが、大きな問題も発生していた。
本城の山形城が領内の最南端にあり、多くの領土へ命令系統が確立出来ぬ状態にあったのだ。
それゆえに、羽後国の檜山城、陸中国の高水寺城、西陸奥国の石川城などの本城では、それぞれ安東愛季、九戸政実、天童頼長を城主として任命し、領内政治や軍事行動を一任するようになっていた。
当主・義守の命令が届かないことから、その領内政治や軍事力は、広大な領土とは裏腹にとても脆弱なものだった。
しかし本城の移転は、領内に大きな混乱をもたらすために、簡単には出来るものではなく、筆頭家老の氏家定直も頭を悩ませていた。
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「武田信玄」を検索してみましたら、 148件の画像がヒットしましたよ。
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