9009 - 京成電鉄(株)
前回は2017年2/12に2,713円で買い判断していますね。
https://ameblo.jp/kurasitoyume/entry-12246909444.html
これほど綺麗に株価上昇しますと、私も気分良くなります。
今回は歴史を戦後から見ていきましょう。
高度経済成長期まで
1967年(昭和42年)から2013年まで使用された東京都墨田区押上の旧本社ビル(2013年5月6日)
戦後、沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用された。中でも千葉・津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に千葉・松戸に延びていた。
この演習線跡地に目を付けた京成電鉄は仮称・下総電鉄を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)・運輸省への払い下げ交渉を開始した。
西武鉄道との激しい競合の末に1946年(昭和21年)3月に転用許可を、8月には路線免許を獲得。10月には正式に新京成電鉄を創立して新線開業を押し進めることとなった。
また、交通統制が緩んだこの時期に東京の電鉄各社は都心延伸の免許申請を行った。
しかし、電鉄各社や営団、東京都との利害が輻輳し、京成でも1950年(昭和25年)8月に押上 - 有楽町間の免許申請を行ったものの、1957年(昭和32年)6月に運輸省の行政指導で「地下鉄網の建設・運営は『営団』『東京都』が担当」「各電鉄は地下鉄に相互乗り入れ運転」の方針が決定される。
京成電鉄は京浜急行電鉄とともに東京都が担任する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなったが、京成 - 京急では軌間の違い(京成1372mm/京急1435mm)が最大の問題となった。
京成・京急・都の3者での協議の結果、軌間は1435mmに決定。そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま1959年(昭和34年)10月9日夜から12月1日朝までの50日間にわたって工事を行った。また、同年2月には押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960年(昭和35年)11月30日に現在の新駅が営業開始、予定の12月1日より3日遅れの4日午後より1号線押上 - 浅草橋の開業によって初の郊外電車 - 地下鉄の相互乗り入れが行われることとなった。
戦災にあった千葉市は、戦後都市復興計画により抜本的な区画整理が行われたが、この時に国鉄・京成電鉄の路線変更および両者の千葉駅の移転も行われることとなった。京成千葉駅(現・千葉中央駅)が現在地に移転(仮)開業したのは1958年(昭和33年)2月10日である。
1960年(昭和35年)前後には千葉・茨城県下の交通各社を系列下に収めるべく、1959年(昭和34年)5月に常総筑波鉄道、11月には鹿島参宮鉄道(以上2社は後の関東鉄道)、1960年(昭和35年)11月には銚子電気鉄道(千葉交通の傘下に)の各鉄道や周辺バス会社を傘下に収めていった。
同じ頃には兼業部門の拡充を再開。
流通部門では京成百貨店の開業(1963年)や京成ストアの設立、不動産部門ではオリエンタルランド(1960年)や京成不動産(1971年・不動産部の独立)、谷津遊園の拡充や京成ホテルの設立などが行われた。
成田空港乗り入れと経営危機から再建まで
1970年代に入ると、1969年の営団(現:東京メトロ)東西線西船橋延伸や1972年の総武本線東京 - 津田沼間複々線(総武快速線)開業といった競合路線の新設や輸送力の増強によって旅客を奪われるようになり、交通事業での収益を上げることが難しくなっていった。
このため、収益源を兼業部門に求める傾向がますます強くなり、特に沿線を離れた東北・北海道での土地買収・開発を押し進めていった。
具体的には、常磐急行交通(1962年(昭和37年))での長距離バス進出(新橋 - 日立)、いわき貨物自動車(1962年系列化)・日本陸運(後の「みちのく急送」)に改称、1964年系列化)での陸送部門での関与、さらには南部縦貫鉄道へも資本参加している。
また、ニュータウンの交通機関として新線建設を目的とした会社に相次いで出資した。
北総開発鉄道(1972年(昭和47年)。
現:北総鉄道)、千葉急行電鉄(1973年。
1998年解散、現京成千原線を経営)、遅れて東葉高速鉄道(1981年(昭和56年))がそれである。
そして、成田空港へのアクセスを目指して1968年(昭和43年)12月に新線免許を申請した。
しかし、運輸省と新東京国際空港公団(ともに当時)が空港ターミナルビル地下への乗り入れを拒否した(当時予定されていた成田新幹線との兼ね合いもあった)。結局、第1・第2ターミナルビルの中間に駅を設置(空港通勤者の交通機関という位置付けとされた)することとなり、1970年(昭和45年)11月に着工、突貫工事により1972年11月には建設工事を終了し、1973年2月には習熟運転も始まった。しかし、反対運動による開港の延期(さらには初代AE車への放火)で6年あまり営業できない期間が続いた。都心側でも、京成上野駅の改良工事が1973年6月から1976年7月まで行われた[注釈 3]。
こういった大型投資を繰り広げている最中にオイルショックに見舞われた。
1977年(昭和52年)度決算ではついに無配に転落。
空港新線が開業できなかったことも一因としてあるが、とりわけ積極的な土地投資が裏目に出て、土地評価額の下落と金利負担が経営を圧迫、ついには累積赤字が1980年(昭和55年)度上半期で133億円、1983年(昭和58年)度下半期で281億円に達した。
この時、京成線の廃止までも検討していた。
1980年(昭和55年)10月に経営再建計画を策定、25%に上る人員削減といった徹底した合理化と系列百貨店閉鎖などの兼業整理、谷津遊園跡地や津田沼の車両工場などの資産処分を次々と行った。
また、同年3月には日本民営鉄道協会からも脱退(再建後の1990年4月に復帰)し、春闘の賃上げ交渉も独自に行うなど、なりふり構わぬ経営再建を図った。
このため、1980年代前半までは労働組合による単独のストライキが頻発することもあったが、傘下のオリエンタルランドが東京ディズニーランドの招致に成功したことや、リストラ策が功を奏して経営が好転した。
1988年(昭和63年)度上半期に12年ぶりの経常利益を計上、1989年度上半期には累積赤字を解消。
下半期には株式配当も復活し、ようやく経営危機からの復活を果たすこととなった。
再建から発展へ
1980年代後半以降、成田空港のアクセスを巡っては開港後も駅の立地の悪さから離れた場所で苦戦を強いられ、投資が回収できない状態が続いた。
しかし、高速道路の渋滞によりリムジンバスの遅延が慢性化するようになったため、1988年になって空港アクセス鉄道建設に対して真剣に検討が行われた。
この結果、1991年(平成3年)3月19日に東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同でのより空港に近い成田空港駅への乗り入れが実現し、利便性が向上した(旧来の成田空港駅は東成田駅に名称変更)。
21世紀に入り、鉄道部門では新型車両の導入や駅員の大量募集といった積極経営を行っている。
駅員募集は毎年のように行われており、数多くの人数を受け入れている。
また、M&Aの動きが活発化する中で、高い資産価値を持つオリエンタルランドに対して簿価の小さい京成電鉄が親会社となっていることへの懸念が指摘されており、2006年4月に株式の敵対的買収に対する防衛策の導入を発表した。
そして、2010年(平成22年)7月17日には成田スカイアクセス(成田空港線)が開業した。
日暮里 - 空港第2ビル間を北総線経由で最速36分で結ぶことになり、成田空港へのアクセスの利便性がさらに向上した(後述の路線の節も参照)。
また、同日からは京成線各駅と北総鉄道・芝山鉄道で一斉に駅ナンバリングを導入した。
京成電鉄では「京成」を示す「KS」と2桁の数字の組み合わせで駅を識別する。
ただし、すでに北総鉄道北総線として開業済みの新柴又 - 印旛日本医大間は京成としての駅ナンバリングの対象からは除外され、押上線押上駅は都営地下鉄浅草線の駅ナンバリングとして付与されている「A20」と京成の駅ナンバリングとして付与される「KS45」を併記している。
また、乗り入れ先のうち新京成電鉄は導入されていなかったが4年後の2014年2月23日に導入された。
京浜急行電鉄は、3か月遅れの10月21日(羽田空港国際線ターミナル駅開業日)に導入している。
当時は、東京メトロ以外の大手私鉄が全線全駅で駅ナンバリングを導入するのは京成電鉄が初めてであった。
京成電鉄が導入する以前に大手私鉄他社では、東京メトロのほか、近畿日本鉄道が2006年にけいはんな線のみに導入していた程度であった。
東京都墨田区押上にある本社の老朽化に伴い、2013年9月17日に本社を千葉県市川市八幡に移転した。
新社屋は本線京成八幡駅・都営地下鉄新宿線本八幡駅の両駅前の再開発地区(八幡三丁目2番1号の旧・京成百貨店跡地)に建設された。
京成電鉄 前面展望 京成本線 日暮里~成田空港
投資判断ですが、時価総額は売上高の2.5倍で、経常利益率が約20%ですね。
とても高い利益率ですね。
チャートは右肩上がりで歴史的高値圏で、信用倍率は1倍を割れています。
どこかに天井はあるわけすが、外国人観光客が増えている間は、株価は強いと思います。
分散投資先の一つとして、私の投資判断は買いです。
0コメント